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【未生怨】とは、アジャセという言葉の漢訳だそうです。
端的には【縁起を憎む心】だそうです。
もう少しいえば、
【縁起を選り好みしようとする心】かもしれない。
つまり、自分の価値観を基準に自分に起こる事象について、良し悪しを付与しようとする。
この心は僕の心に突き刺さっている矢のようなもので、確実に思い当たるのです。
即ち、自分を受け止めることができない。
だから、世界を憎み、他者と心を通わすことができないのだろう。
むなしいということの奥に未生怨が在る。
人間の論理では、次のようになる。
原因が未生怨ならばこれを滅ぼせばいいと。
それは不可能であります。煩悩具足とは、煩悩をまとっているというか、これ以外に自分はない、というか、だから、減らすことも削ることも滅することもできない。
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念に至るまでとどまらず、きえず、たえずと水火ニ河のたとえにあらわれたり(一念多念文意 親鸞聖人 東聖典p545)
ただし、絶望することなかれ。もうひとつの道がある。如来回向の道、即ち【知る】という『智慧の道』が。
何とひどい心であるか、これが自分自身であったか、と。念佛の信心の智慧が、知らしめて下さる。これが汝だ、と。
煩悩具足と信知して本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて法性常楽証せしむ
信知とは、如来、光明、智慧に照らされ、凡夫であるということを否定できなくなること。もう、言い訳ができなくなること。
決して助からない、助かるまじき者と決定すること。これは5年前には十分ではないことであった。照育という言葉がある。
お育てにあずかる、ということである。
念佛往生のお育てを感じる。
人間は一人残らず摂取不捨の大悲に遇わねばならない。それが即ち自分に遇うということと一つなのであります。
南無阿弥陀佛