むなしさとともに

一切の悲しみが尽き果てるまで、共に歩む twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

何のために仏法を聞いておられるのですか?

この問いを忘れて聴聞しても何にもならないと思う。

 

存在の決着をつけるために道を求める以外、動機はないのでは、と思うからだ。

 

師は度々仰る。

 

人間にとって無意味な人生は耐え難い、と。

 

意味のある人生、価値ある人生とは何だろうか?恐らく各自でその答えは異なるのだろう。

 

しかし、人の命は短く、儚い。

中学の時、同級生の父親が亡くなった。

高校の時、同級生が亡くなった。

数年前、以前の同僚が亡くなった。42,3歳だった。

 

互いに無常の世界に生きていて、心身は煩悩具足と云われる。

 

こういう不可解な生存に対し、意味を教えてくれる大人は一人も居なかった。

 

僕はとてもむなしい日々を過ごしていた。

 

そういう19歳の時に、難思の弘誓は難度海を度する大船、という言葉を聞いたのである。

 

なんの事か意味は全く分からなかったが、この言葉を遺した人は何かを知っているのではないかと、思った。

 

大切なことを言っているのではないかと直感した。

 

まぁ、最初の縁は長く続かなかったが、結局仏に負けて、念佛せしめられる現実を今も生きている。

 

むなしいという原点は、今も胸にあり、度々押し潰されそうになる。あるいは、不安もある。この先にどんなことが起こるのだろうと。

 

ただ、一方で明確なこともある。それは、いつ、どこで、どんな行き詰まり方をしても、

 

念佛せよの仰せに従い、口に仏の名を称える、ということだけが定まっている。というよりも、やはり、もう自分には道がなくて、尽き果てている。

 

煩悩具足の身、火宅無常の世界が原点でしょう。それを忘れて仏法を聞いても、徒労に終わるだけだろうと思うのです。

 

道を求めるということには、決着をつけたい、という切実さがあるように思うのです。

 

そこには宗教的緊張感があり、それを抜きに助かるだの有り難いだの言ったところで、それに何の意味があるだろうかと思います。

 

来週の聞法会では、こういうことをもう一度、自身に引き当てる機会にしたい、と数カ月の間、考えてきました。

 

2日間のうち、初日の午後に一時間以内でお話をさせて頂く見込みです。

 

ZOOMを用います。

 

ネット環境さえあれば、ご参加頂ける集いです。無理に顔を出す必要もないし、話す必要もありません。

 

11/7(土)11/8(日)両日とも9時から12時、14時から17時までの予定です。

 

参加費は一日4,000円です。

 

もしよければ案内状をメールさせて頂きますので、コメントを頂ければと思います。

 

テーマは原点の迷失です。見失っているのは悟りではなくて、lose myself、お互い自身を見失っている。

 

だからこそ、智慧の念佛に何度も何度でも立ち帰らねばならないのでありましょう。

 

南無阿弥陀