むなしさとともに

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極悪深重の衆生

極悪深重の衆生

他の方便さらになし

ひとえに弥陀を称じてぞ

浄土にむまるとのべたまう(高僧和讃

 

他の文字に左訓あり、

余の善、余の菩薩の方便にては、生死出でがたしとなり。

 

仏の教えとは、自身に引き当てて聞けよと教えられる。衆生と言っても、具体的には今ここにいる自分のほかにない。

 

日々の暮らしを省みると、やはりとても褒められたものではないのであります。

 

他の衆生から奪い、他の衆生を葬り、他の衆生の悪口を言う。そして、縁起の世界に居りながら、縁起をありのままに受け取れず、取捨選択しようとして足掻いている。

 

こんな自分ではだめだと自分を変革しようとしたこともある。真宗では、十九願の行ともいう。

 

しかし、露呈するのは、見返りを求める心が行に対して、常につきまとい、どうしてもそれを削ぐことができないということだった。

 

こういう時機に至ることを三定死と云う。道あることなし、と言い換えてもいいと思う。

 

三定死に至ることは、自分からはできない。

 

ここで念佛に出遇う、出くわすのであります。

 

この南無阿弥陀佛はこんな我がためのものでありましたか、と疑い、躊躇を透過するのであります。

 

疑いがなくなるのではなくて、用事がなくなる。不要なのです。あろうがなかろうが関係ない、邪魔にならぬのです。

 

南無阿弥陀佛よりほかに、われに道あることなしと決着することを、他の方便さらになしといわれる。

 

ひとえに南無阿弥陀佛を称え浄土に往生せよとの仰せが下のニ句であろうと思われます。

 

信心とは疑いを通すのであります。そして、疑いが破られるという相に至ります。

 

南無阿弥陀