仏法を行ずる人よ、よくよく知らねばならぬ。仏法を知識として学ぼうとするなら、凡夫から聖者にいたり、さらにそのうえ仏果にいたるまでも、みなさわりなく学ぶことができる。しかし、仏法をわが身に行じようとするなら、必ず自分にゆかりのある教えにたよれ。なぜならば、どんなにわずかな努力でも身にあまる利益を得ることができるからである(宗祖親鸞聖人p13)
知識と行ずることに注意したい。
知識は理論理屈。なるほど、頭ではわかった。
しかし、その理論理屈を現実に落としこもうとするとき、思い通りにいかない、ということがある。
身が納得しない、というか、できない?というか。
本当に解るということは、やはり、体解という言葉を用いるのが適当だろうと思う。
腑に落ちるということなのだろう。
むなしさを解決したい。
自分の生存の意味を知りたい。
これが発心だったのだろうか。
とかく、4歳で生存の不可解さに戸惑いを覚え、8歳で大切なペットを失い、怒りを覚えた。
まず、後者が起こった瞬間を、今も覚えていて、大切なペットを奪ったものに対して、滅ぼしてやりたいという心が明確に感じられた。真っ黒な感情が起こった。
むなしさは、度々、執拗に繰り返し起こってきて、何か物足りなさ、不足を感じさせられた。これは、時に今も去来し、押しつぶされそうになる。
仏法を聞くようになったきっかけは、むなしさと黒い感情、あえていえば、諸行無常という言葉に引っかかったこともあるのだろう。諸行無常も同じく8歳の頃、平家物語を国語の教科書で見た時に、なんともいえない気持ちになった。
今ここで、助からぬ自分に相対し、如来は足となり、大地となり、念佛にまで成って喚びづめに喚んでくださる。
我が居るじゃないか、我が名を称えよ、と。
その仰せが南無阿弥陀佛。
念佛は聞くものである、と師の常の仰せに立ち帰る。
よきひとの仰せをこうむりて信ずるよりほかに別の子細なきなり、と親鸞聖人は仰せになった。
隠し事がない。そこに一人のひとがおられたのでしょう。
念佛は佛が大悲をこめて選択くださった、如来選択の行であり、どのひとにも有縁の行であり、このことを順彼佛願故と善導大師は仰った。
南無阿弥陀佛