むなしさとともに

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弥陀の本願信ずべし

弥陀の本願信ずべし

本願信ずるひとはみな

摂取不捨の利益にて

無上覚をばさとるなり

親鸞聖人 夢告和讃)

 

更新あまりできず、すみません。

 

ツイッターだとすっと打てるので良いのですが、ブログはちょっと気合いれんと、よぅ書かんです。 

 

あー、僕は田舎の生まれなので実は話し言葉も書き言葉も訛っています。猫かぶってました。

 

阿弥陀仏の本願とは、わが名を称えよという本願である。

 

このことを称我名号下至十声と善導大師が明らかにして下さった。

 

念佛のことを選択本願の念佛と真宗では云われる。この南無阿弥陀佛と称えるという行は法蔵菩薩五劫思惟の果てに選んで下さった如来回向の行である。

 

如来を信ずる心すらない自分に、念佛を称えるものは必ず浄土に往生せしめるという本願を信じせしめる信心までこしらえて、南無阿弥陀佛にこめて回向してくださる。

 

この凡夫の身で煩悩を無くすことはできないが、煩悩具足のまま、念佛と信心の智慧、即ち南無阿弥陀佛によって、現生不退に摂め取られ、お育て頂き、いよいよこの身が滅ぶ時に、摂取不捨の故に必ず佛様にさせて頂くのだ、と、この夢告和讃で表現されている。

 

何がいいたいかというと、このまま助けられるより道あることなき身であり、これを忘れて信者になってはいけない、ということです。

 

われらは凡夫であります。悲しいことではありますが、このことが共鳴する地平がある。

 

大抵は、歓喜地で歩みが止まり、ありがた屋に転落する。

 

そんなものじゃないんですよ。本願の智慧は。助からぬ身を知らしめられ続けることが不可思議にも平等を啓いて下さる。こういう無窮のはたらきを本願といい、念佛といい、信心といい、南無阿弥陀佛というんでしょう。

 

こういうことを明らかにしておられる僧侶が極めて少ないと木村無相さんが晩年のお手紙で仰っておられる。僕もそのとおりだと思う。

 

お世話になっている先生は二人とも在家出身の方であり、自分の問題を解決するために仏道を聞いてこられたと聞いております。

 

道を求めることには切実さを伴うものでありましょう。それを機縁と転じ、遂に、本願に帰せしめる。僕のむなしさもプレゼントでした。ずーっと骨折ってお育て下さった無限大悲に深く感謝しております。

 

南無阿弥陀