むなしさとともに

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歎異抄聴記②機の深信

機の深信は法の深信が根源で、法から機を開くについて、二種深信ができる。ゆえに、二種深信としては、機の深信が主なるものである(p32-33)

 

今生では信が発起したとしても、佛になることはない。これは、ある意味の断絶を表す。つまり、この身で助かることはない、ということ。

 

昨日、座談会である人が八正道のことを質問していた。先生は、真宗でいえば正見ということが信心のおはたらきであり、中心だろうと仰った。

 

自身において信心の智慧とは如何なることを示すのかと考えた。

 

これは、決して助からない者が自分であると照らされることだろう。

 

即ち、僕の言葉で言えば、十方衆生といってもその最後が自分である、と。

 

僕の後ろには誰も居ない。最後の衆生が僕である。

 

唯除五逆誹謗正法、一闡提、断善根、未生怨とは残念ながら自分のことであろう、と。

 

助からぬ者というところに、照らして下さる光が届いている故に見える。

 

光がなければ、暗がりに何があるかも見えない。闇を闇と知らしめて下さるのが智慧であり、正見であり、光明である。

 

凡夫が自分を全くの凡夫と知らされるのが、佛様が正見してくださっているのあります。

 

必ず片方の足は地に着いていなければならない。法悦という言葉があるように、歓喜は酔いやすく、また冷めてしまうものであります。

 

念佛に何度も何度でも立ち帰らせて頂くことこそ肝要でありましょう。

 

南無阿弥陀