南無阿弥陀佛とは、佛の名である。
このことを疎かにしているのでないかと思う。
念佛を申すというのは、佛の名を称えることであり、称えることは即聞くことである。
自問する。
佛の名を称えるような心が自分にあるか?
否、皆無である。
どこをどう探してもないのであります。
汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。
真面目になれ、煩悩を断じなさい、とも仰っていない。
汝、念佛せよ、との仰せ。
最もお世話になっている先生は常に教えて下さる。お念佛は聞名である、と。
お念佛は如来の直説法であると、松並松五郎という方は仰ったそうだ。
今、称えさせられ、聞こえて下さるお念佛のほかに本願の念佛はないと感ずる。
助からぬ身に乃至十念若不生者不取正覚と誓願がかかっており、今、ここで、この身に、南無阿弥陀佛と聞こえて下さるではないか。
お念佛は行住座臥不問時節久近、親鸞聖人は大悲の願からい出たる、浄土真実の行と仰って下さる。つまり、自分の行などではない。
もしそうなら、過去世に佛の名を称えたことがあったなら、今ここには存在せずに、存在することが終わっていただろうから。
専ら釈迦弥陀二尊の仰せに随順するのみ。
南無阿弥陀佛