むなしさとともに

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歎異抄聴記④所行能信

歎異抄聴記は非常に難解なので、いったん十を目安にやってみようと思います。

 

行は背景である。歴史的背景である。行は歴史的現実である。歴史的現行であると了解すべきである。されば、信なるものは、行を信ずるのではない。すなわち、行のそとにあって行を信ずるのではなく、大いなる行の歴史の流れのなかにあって、歴史の流れに随い、歴史に随順するところに、疑蓋無雑の信は成立する。これを他力回向の信心というのである。行と信と二つ対立して考えてはならない。信は行の大いなる流れのなかにある。行は現行であるから、久遠のむかしより、現行として現在に流れきたっている。その行のなかにこそ信が成立し、あらわれてくるのである(歎異抄聴記 曽我量深先生 P57-58 )

 

引用が長くなってしまったのですが、非常に大切な箇所だと感じます。次もこのことを考えたいです。

 

聞くところは十七願、獲るところは十八願と聞いたことがあります。

 

お念佛は現在、只今、今、ここで、この身に現行しておられる。浄土真実の行、と親鸞聖人は仰せられている。

 

南無阿弥陀佛と称える。確かに称えるのは自分だが、称える自分に至るまでに諸仏の生涯、悲しみ、骨折り、諸仏の歴史をくぐっておられる南無阿弥陀佛である。

 

その南無阿弥陀佛が称える資格も心もない自分に今、至り届いて下さり、南無阿弥陀佛と聞こえて下さる。

 

この南無阿弥陀佛のほかに本願の念佛もなく、如来もない。

 

道絶え果てた自分にワレヲタノメと南無阿弥陀佛の仰せが常に今ここに聞こえて下さる。

 

信心とは疑いを破るもの。疑いとは躊躇。躊躇とは戸惑い、戸惑いとは未決定、未決定とは不安である。

 

不安がなくなるのではない。不安と不安ゆえの渇愛しかない汝よと知らしめることを通して智慧を回向して下さる。

 

故にお念佛は所行、能行にはなりえない。

 

常に所行。所行において、疑いを破り、所行を信じ満足せしめる信心まで回向して下さる。

 

信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと(顕浄土真実教行証文類聖典P149)

 

南無阿弥陀