むなしさとともに

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雑記

忍耐が試される場面が続いている。

 

正直、かなり理不尽な事象であるし、腹が立つし、イライラする。

 

 

ただ、ふと考える。

 

 

この事象は何なのだろうか?と。

 

 

立ち止まると考えざるを得ない。

 

立ち止まると、掘り下げる。

 

掘り下げるとは、思考やふりかえり、或いは、課題が浮かんでくるということ。

 

課題が浮かんできたなら、具体的にどう対応していくか、に移行できる。

 

いつまでに、何を、どう対応していくかが明確になれば、あとは、ただ、やればいい。

 

これは社会的な事象におけること。

 

 

 

一方で身の事実、或いは、精神的限界は確実に超えられない一線である。自分では、全くどうにもならない。手も足も出ない。

 

生まれる、年をとる、死ぬことなどがこの領域のこと。つまり、社会的な事象と次元が違うということ。

 

どうにもならないことを、どうにもならないものと観るのが正見だろう。

 

ここは娑婆、自身は凡夫。お互いにどうにもならないものを抱えているのだなとしみじみ思う。

 

ここに光明が至って下さっているから、見える。暗がりでは、何も見えない。

 

光は見せるという作用を持っている。作用のところに光を見出す。その光を信頼する。

 

その光とは南無阿弥陀佛、智慧の念佛、信心の智慧であろうと思う。ここには、確かに帰る場所がある。帰る場所には、いつでも、常に自分を待って下さる大悲の方がいる。

 

南無阿弥陀