むなしさとともに

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無信の自身


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最近はまとまった時間を取りにくいため、ツイッターを使うことが多く、

 

ブログの更新が滞りがちです。まぁ、やることが多くて、昨日はほぼ一日寝ていた感じです。身が疲れているのでしょうね。

 

歎異抄聴記は非常に難しく、遅々として素読が進みません。

 

なので、今日は徒然なるままに書いてみます。

 

念佛にまで成り下がって下さった大悲。

 

念佛にまで成って下さった如来が方便法身と云われる阿弥陀如来であると僕は感じています。

 

本願とか如来とか大悲とか法話では色々お話をされますが、遠いのです。

 

 

自分から。距離があります。

 

 

自力は捨てられません。ある意味、自分のすべてであります。しかし、万劫の仇であると如来は観ておられます。その心で流転してきたのだよ、と。

 

自力は捨てるのではなく、廃るのです。

 

南無阿弥陀佛とは、今ここで自身が称え、聞こえるところのお念佛のほかに南無阿弥陀佛などありません。本願もありません。大悲もなく、如来もありません。

 

この一声のお念佛のところに本願が顕現し、大悲が躍動し、如来が喚びかけて下さり、諸仏の歴史が突き動かして、南無阿弥陀佛と念佛を永久に称えない者にお念佛が現れて下さるのであります。

 

この大悲の念佛がどうしても自力を捨てることができず、世間的な喜びに埋没し、抜け出す気もなく、抜け出す力もない者のためでしたか、と知らしめられた時、摂取不捨の利益に与るのであります。

 

そのときを以て往生決定、現生不退の身に摂め取られる、というのが真宗の眼目だと思うのです。

 

むなしさとともに、というタイトルでブログを続けていますが、当初は、むなしくない、だったのです。

 

それをむなしさとともに、に変更したのは、自分独りの問題には終わらないのだなと思うからです。

 

ともに、とは、共にであり、友にであり、伴にであり、倶にであります。

 

つまり、もろともに、ということです。

 

もろもろの衆生とともに、いしかわらつぶてのごとくなるわれら、というひらけが往生の信心が啓いて下さる道だと思うのです。

 

僕は今38歳です。あとどのくらいいのちがあるかはわかりませんが、お念佛という如来の直説法を身に蒙り、

 

無限なる大悲と透徹の智慧に耳を傾けていきたいと思います。

 

たとえ明日いのちが終わっても、特に思い残すことは何もありません。凡夫でありますが、すでに方向は与えられているので、何も問題ありません。決定往生せしめられる、その響きが今ここに称えさせられ、聞こえて下さる南無阿弥陀佛です。

 

南無阿弥陀