むなしさとともに

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思うところ

法座に身を置くと、時に、頭がこんがらがるというか、部屋の中がとっ散らかるような、そういうことがあります。

 

今日が当にそれでした。オンラインでもこういうことが起こるのですね。

 

はからいが間に合わないのですね。多分。

 

わかっていたつもりが、全くわかっていないというか。

 

ただ一つ去来することは、

 

【自分は全く助からない存在である】ということが要なのだなということです。

 

助かりたい、楽になりたいのです。もう終わりにしたい。葛藤を味わいたくない。争いたくないし、傷つけ、傷つけたくない。

 

そうすると、心境に留まりたくなる。それは楽だから。

 

しかし、やはり、そこには白ける、飽きるわけで、驚きも発見もないわけです。そして、衆生を見失う。自分に力点がはたらく故に。

 

念佛とは浄土真実の行、すなわち、如 来でありましょう。

 

念佛の信心とは、如 去、如にかえらしめるものでしょう。故に信心は娑婆に属さない、と云われるのではないだろうか。

 

如が衆生の上にはたらきい出る時に真実、すなわち凡夫たることを教化するのが念佛であり、凡夫から離れようとするものを何度も何度でも凡夫たる今ここの事実、如に還すのが信心であり、浄土を出発点に衆生にはたらくおはたらきを総じて二種の回向というのだろう。

 

そして、それらはすべて本願を出処としていて、実は一つところから出発している。法蔵菩薩の願心、即ちソノママナリデタスケルではないのだろうか。

 

これは衆生のうえにはたらきい出るものであり、衆生の所有物には決してならない。

 

はたらいて下さる時には、汝凡夫なり、と照らすというはたらきをして下さる。そして、これは痛い。慚愧というのかどうか、はわからないが、

 

凡夫であるという事実は痛みを伴う。

 

しかし、この凡夫は南無阿弥陀佛がはたらいておられる世界にすでに身を置いており、現に今ここに存在せしめられている。

 

不可思議なことだと思う。

 

いのちとはなんだろうか。助からぬわれらだろうか。未だ何もわからない。

 

 

 

できたら来週には、また歎異抄聴記に戻りたいと思います。 

 

ではまた。

 

緊急事態宣言延長化でありますが、基本を忠実に継続し、くれぐれもご自愛下さい。集団免疫が獲得されるまでは、油断なりません。

 

南無阿弥陀