むなしさとともに

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歎異抄聴記⑥信心の徹照

なぜ信心をもって肝要とすというかとならば、罪悪深重である。ただ信心だけはいっさいの自力の機のはからいをすてて、自力無効としてもっぱら深く如来をたのむ信心、それに対して罪悪深重という。本願を深く信ずる人はやはり深く自分の罪悪を信ずる。罪悪の深きことを信ずる。この意味をもって「罪悪深重」という(歎異抄聴記p97)

 

罪悪深重を外に見ていた。

 

この手を洗えば、血に染まった汚れはとれると思っていた。煩悩という悪習から離れられると思っていた。

 

できると思っていたが、誤りであった。

 

 

自分の手は汚れているのではなく、

 

【汚れ】そのものであり、【血】そのものである。

 

罪悪深重、という言葉、特に深重については、存在としての決定、決着の意味を有する。つまり、定まるという意味がある。

 

逃れること能わず、洗えばとれるような穢れではない、ということ。

 

極重悪人であるということ。

 

極重悪人とは他者と比べて、或いは社会通念的な悪人ではない。

 

自身における自覚の問題であり、相対、絶対を絶した絶対である。

 

つまり、決して助からぬ身である、ということ。

 

親鸞という人は言葉を遺してくれた。

 

極重悪人唯称佛と。

 

このよきひとの仰せをそのまま頂き念佛を申すよりほかに道あることなし。

 

如来回向の行信。これは浄土のはたらきであり、自分には微塵も浄土を願う心がない。

 

南無阿弥陀