むなしさとともに

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この世界に所属するということ

最近はTwitterも頻度が減ってきました。

 

なぜかなと思うと、ご利益によるのだと思うのです。批評家に陥りたくはない。言葉だけでなく、言葉と行を以て現実に向き合う時、問題は他者ではなくて、自身だと思うのです。

 

他者のことを批判できる者なのか、と。

 

ご利益とは何か、それは、自分は全き凡夫であると徹底的に知らしめられることです。

 

凡夫とは現実を生きる人のことだろう。

 

親鸞聖人は真宗にも生きる上で身に得る

 

利益(りやく)が十あると云われている。

 

要は入正定聚の益である、と。

 

定まるというのは何が定まるのか。

 

凡夫であることが決着するのであって、心境が定まったり、立派なひとになることでもない。

 

ただひたすらに現実を生きていく、自分の在り方に葛藤し、涙を流し、痛みを感じ、煩悩から脱却することもなく、齢をとり、病気になり、力なくいのち終わっていく。これは誰かの話ではなくて、自分のことである。

 

僕自身はこの先、残りの生存に何も期待していない。長ければあと40年くらいだろうか。多分この先も期待することはない。

 

ただこの身が終わるまでせいぜい苦しみながら、有縁のひとと共に聴聞しつつ、無仏法のともがらと共に仕事をし、社会に交わり、力なく終わりたい。

 

信者になるつもりは全くない。誰かを教化するつもりもさらさらない。専ら南無阿弥陀佛の大悲を念佛申しつつたずねていくのみ。

 

かっこいい大人が、まだ居るのだ。額に汗をかき、体を張るひとがいるんだ。

 

 

そういうひとのすがたが僕の心を射貫いて道を求めることが始まった。

 

稲妻が閃く、という出来事が人間には起こり得る。16年が過ぎた今もその時の驚きは響いている。

 

鍵山秀三郎という方が道端に横になり、無心にゴミを拾われているすがたを見たとき、生まれて初めて思った。

 

ここに大人がいる、と。

 

 

大切なであいがあったという原点を忘れずに、心境に酔いながら、その酔いを自覚自認し、できることをしていこうと思う。

 

酔いを酔いと告げ知らせてくださる光が今ここに確かにある。言葉にまで、声にまで成って下さり、喚び詰めに喚んで下さるから、念佛を申すことが起こる。無根の信が照らし出して下さる、汝凡夫なり、我が名を称えよと。

 

 

 

特別なひとになる必要はなくて、そのひとはそのひとを全うすればそれで事足りるのでしょう。

 

僕は僕の場所で、せいぜい世界に抗いたいと思います。一偶を照らすというのは、僕にはこういう意味がある言葉です。

 

聚という言葉に注意を払わねばならない。ともがらなのだ、と。われらなのだ、と。

 

 

南無阿弥陀