むなしさとともに

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歎異抄聴記⑦本願の機は誰か

身とは一生涯変わらぬ自分である。自分の心は時々刻々に変わるが、わが身は一生涯貫通して変わらない。ゆえに「自身」という。衆生とはすなわちわが身である。われら衆生である。「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」。すべて宿業に悩まされている苦悩の衆生をすてずして、その苦悩の衆生をたすける。苦悩の衆生南無阿弥陀仏の名号を回向する。

歎異抄聴記p98)

 

一生涯変わらぬ自分である、という一文に立ち止まらざるを得ない。

 

本当にそうだ、と頷かざるを得ない。何故なら全く仏教が身につかないのである。

 

わかったというならば、わかったことができなければならない。繰り返し何度も表現できなければ、それはわかったとはいえないのではないか、と思う。再現性を以て習得したといえるのではないだろうか。

 

そして、自分には仏教が行じられない。行ずる力がない。皆無である。そのことを日々の生活が思い知らせて下さる。

 

わが身は一生涯貫通して変わらない。

 

一生涯変わらぬことを性(しょう)というのだと有縁の先生が仰っていた。

 

凡夫という性質、佛に成る資質がない、という性。

 

宿業という言葉もわかった気がしていたのだが、全くわからなくなってしまった。

 

今、ここに、自分というすがたで自分が居ることの背景一切を宿業というのだと思うのだが、これは非常に残酷なことである。

 

なぜ自分が自分なのか、全く思い当たらないのである。過去の自分の流転を忘れてしまっている。故に思うのだ。

 

どうして自分がこんな目に遭わねばならないのか、なぜ自分なのか、と。

 

しかし、だからこそ浄土に往生遂げさぜずばおかないという法蔵菩薩の願心が南無阿弥陀佛にまで成って念佛せしめて下さる。

 

そして、その一声が今確かに聞こえて下さる。

 

念佛する可能性がない自分に念佛が聞こえて下さる。

 

僕は、全き如来回向の南無阿弥陀佛であると感受する。

 

大悲そのものである、と。

 

南無阿弥陀