むなしさとともに

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南無阿弥陀佛と聞かされるばかり

浄土真宗聴聞に極まるといわれます。

 

聴聞とはお寺へ足を運び、お説教を聞く。寺を出たあとに生活を通して説かれた法を確かめていく、吟味することです。

 

(そんな簡単に信じることなどできない、託すことはできない。僕はそうです。確かめる必要がある)

 

つまり、聴聞の場にはひとが集まるのです。

 

しかし、コロナ禍においては、感染リスクが高まるため、積極的にお寺へ行き難いです。ただし、聞法会を今も開かれるお寺については、推奨されている対策を講じて継続されておられることを、付しておきます。

 

代替としてZOOMを用いた勉強会もありますが、やはり足を運び、お座に身を置いて教わることが多いと感じること、或いは場の空気感を感じにくいことから、自分は苦手であります。間合いがとりにくい。

 

こうなると、なかなか聴聞できない、となりますが、さて、本当にそうでしょうか。

 

 

お念佛がありますね。

 

 

善導大師は本願念佛は行住坐伏不問時節久近であると仰る。

 

松並松五郎という妙好人如来の直説法といい、木村無相さんも一声一声が如来のおでまし、一声一声が浄土真宗であると詩を残しておられます。

 

では自分は念佛を申すのかというと、ほとんど申しません。ふと念佛を申す程度で、自分には貪りしかないのだなと知らされるばかりです。

 

念佛は聞かされるもの、本願の念佛を聞かされるばかりで特に何もありません。

 

特別な心境はなく、ただ、ふと念佛を称えさせられ、聞こえて下さるだけ。

 

これで十分なのであります。なぜなら、自分には佛の名を称えようという心が全くないからです。

 

十七願、諸仏称名の願いが今この身に至り届いて下さり、称えさせて下さるものだと身にしみて思うのであります。

 

信心は決定心、無擬の心であるならば、如来さんの御心が無擬であればよい。自分の心などは当てになるものではないのです。

 

自分の心に用事がなくなる。散り乱れておろうが、微塵も関係ない。如来さんが今ここに在して、お前を必ず往生浄土せしめるという勅命が今ここで称えさせられ聞こえて下さるところの南無阿弥陀佛と聞いております。

 

いよいよ南無阿弥陀佛ばっかりです。今ここで称えさせられ、聞こえて下さる南無阿弥陀佛に助けられるだけです。

 

浅ましい自身の姿を見せつけられるのは、見せつけて下さる智慧と大悲が在すからであります。その智慧と大悲の名告りが南無阿弥陀佛。

 

助からぬ汝を助けるの仰せが南無阿弥陀佛。

 

即ち南無阿弥陀佛が在すので、心配はいらぬのであります。

 

不退の船に乗せられたならば、その船が向かう処に向かうだけで、乗客は船に乗せられておけばいい。不退の船は必ず彼岸へ着岸する。

 

南無阿弥陀