むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

聴聞の場が起こることについて

・人を信じるということ

 

・現場のど真ん中から「人間」を考える

 

・いったい何のために仏法を聞いているのだろう

 

・原点の迷失

 

 

これまで年に一度、4回開かれてきた会座があり、その年毎のテーマが上のものになります。

 

1回目は参加者として、2回目以降は、会を開く一員として関わらせて頂いています。

 

そして、今年も10月の終わりの土日に【オンライン】(ZOOM)でありますが、5回目の場が起こる予定です。

 

場が起こるということ、は当然のことではないのだな、と感じます。そこには場を開きたいというひとがいて、何らかの思いがあります。そして、やりとりがあります。

 

場を開きたいというひとにも、生活があり、営みがあります。忙しいのであります。コロナ禍なので実際に何度もお会いして打ち合わせを行うというのも難しい。

 

実際に色々な負荷がかかるのも事実です。

 

それでも、やりきろうと思い立つのは、なぜか?

 

先生が僕らに応えようとして下さるから、です。

 

呼応というか、応答というか。

 

時と人と場が揃って法が説かれる、法を聴聞させて頂くということが起こる。

 

法のはたらきの普遍性は人間とのやりとりにおいて主として感じられる。

 

それは言葉かもしれないし、すがたかもしれないし、佇まいかもしれない。

 

しかし、ふと(法がはたらいておられる)と知らされる時がないわけではありません。

 

うまくいえないのですが、続けてきた会座には人間が居るなと思うのです。

 

それぞれの苦悩を抱えておられる人々が居る。そして、その中のひとりが自分であると。

 

また確定次第、ブログとツイッターで改めて案内させて頂きます。もしご興味があれば、コメント頂ければ個別にご案内致します(書込みは非公開とさせて頂きますのでご安心下さい)

 

南無阿弥陀