むなしさとともに

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痛焼の衆生とは誰なんだ

※本件は第5回みちのかいのテーマ案の一つとして作成した文章です。身に引き当てて聞く、ということにこだわっています。つまり、他人事ではないということです。

 

静かに自分の生活を省みる。必ず【ひと】がそこにいる。独りでできることなどたかが知れていて、結局誰かの力を借りなければ何も進まない。重いもの一つ運べない。


時間的、空間的、肉体的制約があるだけでなく、如来は【存在】として「汝、煩悩具足なり」といわれる。


煩悩とは何だろう。それは【衝動】であると感じる。常に渇き、不断に癒えぬ何かがあり、絶えず不安定で、不安定故に必ず何かで【われ】を支えようとする。【手】とは貪りの象徴でないかと、ふと思う。


この【手】は互いに手を取り、力を合わせることもあるが、現実は厳しく、争いは絶えない。争いは血を流すだけでなく、心を傷つけ、えぐることがある。しかも、互いにそのことに気づかず【痛み】も感じない。痛いといわれると、「そんなこと知らなかった」と許しを請う。口業も鋭利である。


【条件が整う間】はいくらでも詭弁を言えるが、間に合わなくなれば【ひと】を見捨て、他者から見捨てられる可能性を、既に内包した【われ】である。既に【ひと】としてではなく【われにとっての有益無益】でしか目の前の人を、どうしても見ることができない。


痛焼の衆生を【外】に見ていたが、実は【それそのもの】である。しかし、いつも、瞬く前に【それそのもの】を見失うが、「何度も何度も喚び帰す仰せ」と「先立って生きていったひとびとの言葉」が【今ここのこの身】に聞こえて来たる。


【大切な汝よ、念佛申す身に帰れ】と。


みちのかいも早5回目。いよいよ【身】に引当てて聞かねばならないと思います。


仏法は【聞かざるを得ないもの】であり、【必要とするもの】ではないと思います。必要とするというならば、その仏法は【われの道具】なのかもしれません。


僕は時々思い出すのです。

「念佛の目的は念佛」という言葉を【住岡夜晃先生】


本願を証しするのは痛焼の衆生でありましょう。


極重悪人唯称仏(正信念佛偈)