むなしさとともに

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誓いの名声とはどこにあるのか

※本件は第5回みちのかいのテーマ案の一つとして作成した文章です。身に引き当てて聞く、ということにこだわっています。つまり、他人事ではないということです。

 

※重誓名声聞十方。誓いの名声は今ここに称えさせられ、聞こえて下さる南無阿弥陀佛のほかに、どこかにあるのだろうか?

 

大悲は躍動し、脈を打っている。それが一声の念佛の内実である。

 

 

お念佛を軽んじていないだろうか。自分が称えるツールにしていないだろうか。身に引き当てて考えなければならない。


親鸞聖人は本願の名号である、と仰る。本願がおすがたをとられたのが名号であると。


生活における、他者とのやりとりでも結局そうなのだが、心と表現が揃って初めて、心は心として、表現は表現として、示現するのであろう。


心で思っていたとしても、それが何らかの形で表現されなければ、結局ただ思っただけでしょう?と僕は思う。現実の中には、詭弁で済まされることが多い。汚いと思うならばすぐに掃除する。いや、している。


一方で、形骸化という言葉がある。目的を失い、形だけで、中身がない。いつしか形を保つことが目的になり、ただ形を保つことだけが繰り返される。表層に囚われ、原点を迷失し、とても虚しい。


お念佛は名となり声とまでなった大悲であり、人間の行ではない。どんなに心で称えようと、不可逆的に如来の行であり、故に大行、浄土真実の行と仰られる。


三誓偈に、私が成仏した暁には、衆生に名となり声となってはたらき続けよう、一切の恐れは不安をそのまま摂取しよう、と誓っておられる。念佛は誓いの名声である。


わが名を称えるものがもしわが浄土に往生せずば、誓うて仏に成らじ、というのが、本願加減といわれる本願の本意でありましょう。ソノママナリデタスケルであります。


みちのかいも5回目を迎えます。依然、コロナ禍の中でありますが、その中をくぐって届けられる会座であり、開かれる場であり、ひとがいる場でありましょう。どうぞ正直な声を聞かせて下さい。


そもそも胸に手を当て尋ねてみる。自分には仏の名を称える心があるのだろうかと。皆無である。とても残念だ、そんな心はどこにも、微塵もない。


極重悪人唯称仏(正信念佛偈)