むなしさとともに

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メダカのすがたを通して

僕はメダカを飼っています。

 

10月に入り、彼の具合が悪く、立ち泳ぎの状態になってしまいました。

 

おそらく寿命です。

 

彼には兄が居たのですが、兄は先立って逝きました。その前に、彼の父も居たのですが、やはり今年先立って逝きました。

 

もともとメダカを飼いたいと思って飼育を始めた訳ではなく、たまたまうちにやってきて、三代続いた最後の個体が、今うちに居るものです。

 

彼が卵の時から見てきて、病になったら隔離し治療し、毎日餌を与え、適宜水を替えてきたわけです。

 

もうあまり長く生きれそうにないとなると、厳粛なものを感じるわけです。あぁ、大変な身を生きてきたのだな、と。

 

そして、自分も。

 

厳粛なものに触れると、言葉が止まるのです。言葉がない。止む。尽き果てる、言葉が間に合わない。

 

そういうものをお互い抱えながら、それから逃れられずにもなお日々を過ごしている。

 

それは誤魔化している、逃げている、遠ざけているのかもしれない。痛みに真向かいになって、耐えられなくなったのかもしれないし、それは本人にもわからないのかもしれない。

 

ただ、お互い当人にしかわからぬ苦悩があるのです。いちにんの苦悩というか替えが利かないものを背負って、目の前に居る。

 

その苦悩を場所として本願がはたらいてくる、念佛の信心が自我を自我と徹照して下さる。

 

信心とは克服や突破ではなく、光明であり、お照らしをひたすら蒙るものではないかと思うのです。

 

そこに助からぬものとしてのわれらが見いだされてくる、知らしめ続けてくださるおはたらきがある。

 

このように思うことであります。

 

南無阿弥陀


 211011追記


本日メダカはいなくなりました。


彼はどこに行ったのか、知るところではありせん。


ただ、彼が近くに泳いできてくれたこと、なついてくれたことを思い出します。


存在がそこに居てくれる、というのはかけがえがなく、あたたかく、懐かしいものであります。


ともに日々を過ごしてくれて、ありがとうと伝えたいです。