むなしさとともに

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浄土真実の行

諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行

 

大行とは、すなわち無碍光如来の御名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳法海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。

(東真宗聖典p156-157 顕浄土真実教行証文類

 

今週は、この記事の投稿だけになると思います。

 

お念佛に関する親鸞聖人の領解であります。

 

浄土へ往生するための行ではない、浄土真実のはたらきなのだ、ということが浄土真実の行という言葉であろう、と思います。

 

そして、この行は大悲の願より、出でたり、と仰っている。大悲の願とは、最初に挙げられている諸仏称名の願、第十七願のことであります。

 

お念佛は浄土真実の行である。

 

このことは、佐野先生から何度も聞かせて頂いております。浄土から届くおはたらきである、ということであり、人間が使役するものではないのであります。

 

如来成仏の果行であり、因行ではない、ということではないだろうかと思うのであります。

 

我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。已上(p186)

 

ここでいわれる多功徳とは、多少という意味ではなく、相対を絶した真の功徳ということを表しておられる、と思うのであります。

 

それが真如一実の功徳宝海であります。

 

阿弥陀仏のことを【音声仏】ともいわれるそうです。

 

本願、如来、大悲、智慧といわれますが、それはなんぞや、と。

 

わたくしにいわく、それ今ここでこの身に現在称聞せしめて下さるところのお念佛、すなわち南無阿弥陀佛のほかになし。

 

具体的、実践的に、身に引き当てなさい、と教導を受けている。

 

観念的に考えてはいけない。

 

今ここに、助からぬ心身を抱えた自分に南無阿弥陀佛と喚びづめに喚んでくださる故に念佛が聞こえてくださるではないか。

 

この南無阿弥陀佛を聞くひとつ。

 

このほかに念佛も信心もない。

 

それでは、11月にまた。

 

南無阿弥陀