むなしさとともに

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二種深信

こんばんは。寒くなりましたね。

 

仕事終わりに書いています。

 

やっと身も心も少し落ち着いてきまして、

 

少しずつ考えてみたいと思います。

 

 

今回の法座で、あらためて教えて頂きました。

 

自分は渇愛の塊である、と。

 

突き上げてくる意欲に動かされている存在が自分である、と。

 

この突き上げてくる意欲を十二縁起では、行という。僕自身は渇きだと改めて知らされた思いです。

 

しかも、それは無明に根ざした意欲である、と。それが具体的な姿をとって展開しているのが、この老病死を具足して生まれ今ここに在るこの身だと。

 

これはぐうの音も出ないのであります。

 

そのとおりであろう、と頷かざるを得ない。

 

智慧の言葉であります。

 

ここまで言い当てられると、普通は暗くなります。凡夫ということは、耐え難い事実でありましょう。

 

しかし、実は非常に明るい、嬉しいのであります。本当にそうだなぁ、と思う。

 

如来とは智慧、光明。浄土は無量光明土ともいわれる。

 

光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず、との親鸞聖人の言葉もある。

 

光のお照らしが在す故に決して助からぬことが知らされる。

 

無有出離之縁の存在が自分であること、

 

だからこそ、必ず助けずばおかないという大悲、南無阿弥陀佛が久遠の昔から今に至るまで、すでに届いていることを知る。

 

浄土真宗は、二種深信、深信とは信知、

 

深信自身と乗彼願力。

 

もう一度お聖教と師のお言葉と現実と具体的実践に訪ね直したいと思います。

 

ブログとツイッターともう一つ、何か始めるかもしれません。始めないかもですが、何か始めたいなとも思うことであります。

 

南無阿弥陀

 

そうそう、このブログも6年を迎えました。のべ47,300アクセスありがとうございます。

 

おおきに(笑)これからもご贔屓に。