むなしさとともに

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無量寿佛の御名を持て

仕事が忙しく、ペースが戻ってなくてごめんなさい。競争社会で足掻いております。

 

直近の聞法会から早2週間とか、早すぎますね。

 

僕は僧侶ではないので、教学はありません。信者でもありません。ただの社会人です。

 

今も、かっぱえびせんを食べつつ、携帯から打っています。

 

無量寿佛の御名を持て、というのは、観無量寿経の流通文で、阿難に付属される釈尊の言葉です(東聖典p122)

 

阿難とは凡夫の代表であり、彼に念佛せよという言葉を後世に伝えてほしい、というのが流通文の御心でありましょう。

 

言伝をするのは、相手に伝えたいことがあるから託すのであります。

 

お経の言葉は仏語であります。仏語は如来の言葉です。ただの言葉ではない。

 

2500年の歴史に耐えてきた言葉がお経の言葉、即ち仏語であります。

 

釈迦弥陀は慈悲の父母

種々に善巧方便し

われらが無上の信心を

発起せしめたまいけり(東聖典p496善導讃)

 

浄土真宗釈尊阿弥陀佛の二尊に助けられて往生せしめられると思っています。もっといえば、諸仏のおすがたにまで成ってあらわれてくださり、念佛一行を専ら勧めて下さる。

 

阿弥陀経でも念佛せよと専ら勧めて下さる。

 

南無阿弥陀佛一つを勧めて下さる方は諸仏に等しいお方だと思う。なぜ勧めてくるのか、それはその人が現実的に南無阿弥陀佛に助けれているから。

 

阿弥陀経を通して称えれば分かる。同じことが何度も繰り返される。

 

一切諸佛所護念経と何度も出てくる(東聖典p130-132)

 

それは諸仏が重ねて証して下さる故に繰り返される。

 

念佛に助けられなさい、とすすめて下さる。自分の存在を賭けて勧めて下さる。

 

一声の念佛が出てくださるのはただ事ではなくて、諸仏の伝統、諸仏の歴史を通して聞こえて下さる南無阿弥陀佛であります。

 

南無阿弥陀

 

まだ大無量寿経は自分には読むことができません。いつの日かちゃんと読みたいと思います。