むなしさとともに

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当事者になるということ


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この一ヶ月何となく気になっていたことが、【当事者になる】ということでした。 

 

どこでも、よくあることだと思うのですが、口では立派なことを述べる。あれが悪い、あの人が悪い、と。

 

うむ、それはわかった。それで、あなたはいつまでに、何を、どうするのですか?と問うと絶句する。誤魔化して、去っていく。

 

文句は言うが何もしない。傍観している。

 

誰かが何とかしてくれる、と思っているのか知らないが、そんなことをしていては、ゆでガエルになってしまう。

 

時間や環境の変化はインターネットによってものすごく早くなった、これからもさらに加速していく。

 

今までも継続、一貫して、具体的に行動をしてきました。コロナ対策、財務会計管理会計、業務支援にしかり。

 

なので、今まで教わり、実験してきたところの傾聴、コーチング、グループウェア、プラットフォーム、DXの経験を動員し、物事に関わろうと思っています。

 

上下ではなく、水平の関係。教導ではなく、共同であり、協同。

 

コーチングの語源に【伴走する】という意味があります。これは、伴奏でもいいかもしれません。

 

そして【大事な人を目的地に運ぶ】という意味もあります。面白いですね、この語源は。

 

僕は真宗の教えを聴聞している、とは公言していないので、社内でそれを知る人はいないし、話すつもりもありません。

 

ただ、人を育てる、自分が次に進むためには後継を育て、自立させることが必要だと思います。僕の場合は、マンツーマンで最低3年必要です。

 

物事の関連、意味、現実のオペレーション、役割を体験的に学ばなければ、知識に留まります。やはり、血肉にせねばなりません。体解という学びです。

 

そして、自分との違いを認め、相手を認める、相手には意思決定する力があると信じることが前提に在る必要があります。

 

人づくりには、時間と忍耐を要します。しかし、人づくりを疎かにして、ものづくり、サービスの創出はできない、と思うわけです。

 

僕は32歳のころ、10ヶ月間、無職になったことがあります。そのときに、自分が労働を通じて社会と接点を持ち、そのことで支えられていたことを身をもって痛感しました。 

 

世界から取り残された、置き去りにされた感覚。

 

なので、まだ暫くは社会に身を置き、労働者として社会に関わる所存です。この間、何をするんやといえば、ひとこと。

 

ただ一隅を照らす、これのみ。

 

目の前の人、縁あって共に仕事する人々と共に汗をかき、手を汚し、同じ釜の飯を食べる。そして、考えて、かける言葉を練り、眼差しを配り、葛藤する。

 

念佛とは全く関係ないように見えるかもしれませんが、実は全て念佛です。

 

念佛の具体的表現、念佛の中身、内実、即ち大悲です。

 

僕における真宗の表現を仕事や社会との交わりの中で探求します。

 

南無阿弥陀