むなしさとともに

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【続】ということ

年が明け、何となく頭によぎったのが、【続】という言葉です。

 

この言葉を2つに分けて考えます。

 

①続けるということ

②続いていくということ

 

①【続けるということ】については、この数年続けてきたことを、更に継続するということです。まだうまくいえないのですが、継続により深まる、練達するということがある気がします。

 

線が平面に、平面が立体に、立体を多角的に観察するような、そういうイメージです。静かでひたむきな努力を続けていく所存です。

 

聴聞については、如来大悲を一途に聞いていく、お聞かせに与る、これだけであります。そして、時折出て下さる誓いの名声を聞かせて頂きます。

 

②【続いていくということ】については、生死は計らえないというか、事実、現実はわが思いに関係なくひたすらに流れ続けていく、こういうことを感じます。

 

健康診断で引っかかったのは、目でした。自覚症状が全くなかったので、驚いたのですが、今のところ、問題はなかった。

 

一方で、成るようにしかならない、と思うのです。【業縁のもよおし】と呼んでよいかわからないですが、そういうことがこの世には起こってしまう。

 

どうしてこんなことが起こってしまうのか、なぜこんなことになってしまったのか、といくら考えてもわかりません。

 

僕自身、自分の意思で生まれた覚えは全くなく、気がついたらこの世におったのであります。そうして、何とか今日まで過ごしてきた。平坦な道ではなかった。色々なことがあった。

 

この世に居ると、身に覚えのない理不尽なこと、不可解なことが次々に起こる。痛みが何度も押し寄せてくる。手応えのなさ、無力さ、むなしさに押しつぶされそうにもなる。一方で、自分の意図しないことで、人様に手数をかけさせてしまう。過失、失念も起きる。

 

縁起、因果律と云われてもピンと来ない。しかし、自分の意思に関係なく、起こることもあるし、起こらないこともある。縁起は縁起の法、ダルマともいわれ、ダルマとは道理であると聞く。道理とは、不可逆的な流れ、狂いなき精緻さを具足するものでありましょう。

 

不可解な現世におりながらも、終局の時が来るまで、不思議と自分の生存が続いていく。生存はわが計らいの外にあるものです。帰命無量寿如来、いのち限りなき如来阿弥陀佛のことを申します。

 

自分を今ここに現存させている、今日まで現存させてきた力用と、自分に念佛申させる力用は同じ依所から出発し至り届いているようです、どうやら。

 

どうやら、というのは、齢39では、このところはまだ実感が持てません。

 

ただ、自分に念佛を申す、佛の名を称える心が皆無である、本当は何を求めているのかさえもわからない存在である、ということは、如来のお照らしによって知らされるところであります。

 

如来智慧なり、光明なり、という親鸞聖人の言葉があります。照らして下さる智慧の光明であります。

 

続いていく、ということは、自分の力ではないのであります。黒板があるから、チョークで文字や絵が書ける。なかなか黒板に目が行かないものだ、と藤谷秀道先生の法話のテープで拝聴したことがあります。まず黒板がある、ということです。歩く前に大地がある。

 

続けていくこと、続いていくことを確かめていく一年になれば、と思います。

 

引き続き本年も宜しくお願い致します。

 

南無阿弥陀