むなしさとともに

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「伴なるわれら」と【念佛往生】

信仰は硬直してはならない、確固とすべきである。硬直した信仰は狂信的となり、確固とした信仰は寛容である。信仰の確固としていない人は硬直したドグマに両手ですがりつく。これに対して確固たる信仰をもつひとは両手は自由で、その手を他の人々にのばし、その人々と実存的に交わるのである。

 

苦悩の存在論p200 VEフランクル

 

最近はブログへなかなか気持ちが向きません。なぜかツイッターが主になっています。

 

以下は、今日のツイートの補足です。

 

僕は我執の根本は「不安」だと思っています。言い換えれば「未決定」です。

 

未決定ということは、揺らぐということ、躊躇ということ。それは、不安定であるということ。

 

一方で、摂取不捨の利益により、凡夫の位に定められる、これを【正定聚不退の位】とも言われます。真宗親鸞聖人の教えと七祖との違いはここにあり【現生不退】と言われます。

 

不退転とは、菩薩の階梯、歓喜地、必ず佛に成ることが定まる位を指します。故に大いなる歓喜が起こるそうです。授記を受けるとも言われるようです。【汝は必ず佛に成るであろう、と佛様から予言を授かること】です。

 

ここに躊躇はない、言い換えれば躊躇は躊躇のまま力を失うということです。

 

不安定である故に、何かにすがろうとする。これは「会社」かもしれないし、「家族」かもしれない。「財」かもしれないし、「地位」や「健康」かもしれない。

 

「」群に共通する問題は「無常なるもの」ということです。

 

無常とは道理であり、法則なので、何人も何ものも回避することはできません。

 

だから、「」群をかき集めようとしたり、必死に守ろうとするわけです。しかし、どうやっても守りきれない。

 

なぜかというと「自分は有限ないのちを生きているから」です。

 

僕の体解するところ、「」群は「蟹の足」のようなものです。何本もあるので多少なくなっても横に歩き回れる。しかし、胴体からもげるわけです。

 

最後に残るのは「自分」という胴体のみであり、それが「我執」であり「我が身」であります。

 

故に、我が身を守ろうとすることが、煩悩としてはたらき、露わになる。大切なものだから、守ろうとする。そして、白黒がつく。傷つけ、傷つきあう。

 

これが、フランクルの文でいうところの、硬直の内実だと感じます。群れることをドグマを作ると言うのでしょう。

 

一方で、寛容さとは、柔軟性であり、満ち足りているということがある。

 

たとえ、手許にあるものを失っても、涙を流し、歯を食いしばりつつも、過ごしていく。佛様ましますところから、堪えさせるという力を頂く。わが力にあらず、です。

 

すでに今与えられている光を仰ぐ。無上の光は南無阿弥陀佛。

 

南無阿弥陀佛と言っても、お互いが今ここで称えさせて頂く大悲の念佛のほかに南無阿弥陀佛はどこにも何にもない、と思うのであります。

 

師から【具体的に、自分に引き当てて考えなさい】と教導を受けている。大事なことと思う。

 

すなわち、南無阿弥陀佛ひとつをたもつ、ということであります。ここに自ずから寛容、柔軟心が与えられてくると思うのであります。

 

さきほど、スーパーに買い物に行き、両手にいっぱいの荷物を抱え、歩いて帰りながら思いました。

 

あぁ、自分は凡夫であるけれども、佛菩薩だけでなく、諸々の衆生の功徳を捧げて頂いて、今ここを歩いているのかな、と。

 

縁起とは、すなわち、関係性であります。

 

功徳を頂く価値のない者が数え切れないあまたの功徳を頂いて、39年間生きてこれたのだ、と。

 

最後の実存的に交わる、ということは、僕の感ずるところは、念佛往生であります。

 

念佛往生とは【南無阿弥陀佛から直接の教化を蒙ること】、

 

すなわち【お育てに与る】ということ、であります。

 

フランクルという方の言葉を通して、改めてお育てに与ることを思い直した次第です。

 

お育てに与る故に、いしかわらつぶての如くなるわれら、というものが朧げに観えてくるのだと思います。

 

目は光まします故に見えるのであります。光の力用は見せるということ。見えるということにおいて、見せてくださる光を仰ぐのであります。

 

南無阿弥陀