むなしさとともに

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仏様に信じられているということ

最近、あまり更新せんくてごめんなさい。

 

長文を書くのが億劫になってきたのかもしれません。ツイートは割としてるので、もしTwitterをされておられたら、ご覧頂ければ幸いです。

 

アクセスログを見ると、なぜかアクセスが集中する時があるのですが、謎現象です。。

 

 

さて、特に書くこともないのですが、最近大事に思っていることを。

 

 

 

【部分と全体は違う】

 

 

 

部分は確実に全体の一部を占める。けれども、それが全てではない、ということです。

 

僕らは苦しくなると通常よりも更に視野が狭くなります。近眼、視野狭窄といいますか。

 

引いて見れば違う景色が見えます。あるいは立ち位置が変われば見えなかったものも見えます。

 

普段行き帰りする道路があるとします。その道の逆を通ってみて下さい。違う景色、違う建物が見えます。あれ、こんなものがあったのか、と思ったりします。

 

 

そして、一番大切なことは、自分の知る自分が自分の全てではない、ということです。

 

ここが要です。

 

仏様が見出し、信じて下さっている何かがそなわっている。それが何かは僕らにはわからないが、仏様はそれを必要としている。

 

大事に思って下さっている。

 

完全に信じ切って下さっている。

 

仏様がわれらに先立って信じ切って下さっているから、如来を信じる信心が起こってくる。

 

これを如来廻向と言いたい。

 

僕らはみな如来廻向で助けられるのであります。

 

それは、そのまま、大悲されている、愛されている、必要とされているということです。

 

 

 

最後に、曽我量深師のお言葉を添えます。

 

親鸞の大地 津曲淳三著p116より

 

仏を信ずるというのは、我々が先ず以て仏から信ぜられている。仏は我等一切衆生を無条件に信じて、信ずるが故に大悲本願を発して下された。

 

中略

 

仏に信ぜられておるという事が自分にわかることが、仏を信ずることだ。

 

仏は我等の本当の心、本当の根性を見透して、それを信じて、仏は本当の自信を有っておられるから一切の者を引受けて信じておられる。

 

仏は自らを信じ、又一切衆生を信じ、衆生が必ず自分の本願を信じて立上がるに違いないことを信じて、そこに本願を起された。

 

私どもは自分にどういう取柄があるか解らぬが、仏様はちゃんと知っていなさる。それは仏智の不思議というもの。我々が解るような事なら不思議でも何でもない。

 

こういうお言葉に触れると、あぁそうかと改めて思いしらされることであります。

 

憑むべきは弥陀如来、依るべきはただ念佛一行、と。

 

南無阿弥陀