むなしさとともに

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続 現実へのかかわり、柔軟心成就

以前にブログに書いたことの顛末です。

 

端的には、希望する人がおらず、頓挫した、という結果になりました。

 

力不足です。これはこれ。

 

大事なことは(次)はどうするか?です。

 

いつまでも同じところに留まれる時間はありません。

 

時は不可逆的ですから。

 

 

僕は、教わってきたことを深める、多角的な学びを進めていきます。

 

具体的には以下のようになります。

 

レジリエンスについて、学びを進める。

 

生きていくのは大変で、耐え難いこと、辛いこと、悲しいことが起こってきます。故に柔軟さ、強かさ、しなやかさで、いなす必要があると考えます。

 

単に、耐え忍ぶというだけではダメで、耐えつつ、打開するための準備を進めていく、そして、機が熟すことが大事だと思います。

 

レジリエンスはいくつかの要素の複合体であり、その基本に、交流分析で教わったことがあるように思います。

 

【I'm ok.You are ok】

 

たったこれだけのことで僕は凄く楽になりました。あー、他者と違っても良いんだ、と思ったからです。

 

袂を分かってもいい。違ってもいい。自分は相手を否定しない。故に相手に自分を否定させない。否定してくるのなら、断固戦う。但し、僕からは否定しない。肯定もしない。

 

悟る、というのは、沢山のことを聞き、学び、覚えるというのではなくて、

 

瞬時に悟る、至る、このようなものではないかと思われます。転ずるというのは、瞬時に起こり得ます。気づけば、すでにそこに在る。ずっと在った。

 

見惑を断ずるのは一念である、と云われます。正しい見解、正見により一時に断ずる。

 

一方で、修惑という煩悩は暫時に断ずる、段階があるとのことです。唯識の中に教えられています。十地経も同じことが書いてあります。

 

レジリエンスとは、世間の技術であり、仏法と何の関係があるのだと言われるかもしれません。

 

平等智と差別智を円満に成就しておられるのが仏さまであると教わっております。

 

僕は、レジリエンスとは柔軟心成就と無関係ではないと思っています。そして、柔軟心成就は、世間の厳しい風雪、雨風、無関心を通して、鍛えられていくものであると感じます。

 

名刀は幾度も幾度も刀鍛冶に打たれ、炎を徹したからこそ、水が滴るような美しさがあるのでしょう。

 

三日月宗近は本当に美しい刀でした。もし、機会があれば是非ご覧ください。あの刀は別格だと思います。さすが、国宝ってね。

 

 

具体性のない、現実に展開されない仏法に何の意義があるのか、と思う訳です。独りよがりを脱していない。

 

 

誰も知らぬ、気づかぬ、存ぜぬ。

 

けれども、僕は柔軟心成就のために僕にできる範囲で行を続ける。学び続けていく。

 

真宗に遇うということは、一過性のものではなくて、遇い続けていく。

 

新たに知らされていく、念佛往生ということであります。

 

念佛往生は念佛成仏、必ず涅槃に至る。

 

南無阿弥陀