むなしさとともに

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苦悩の起点 比較

はや3月ですね。時の経過が驚くほど早いです。

 

4月から5月末まで繁忙期に入るので、体調も含めて引き締めていく必要があります。

 

さて、僕の苦悩の起点の一つに、比較があります。このことを僕なりに考えます。

 

僕は、物心ついたときから、むなしいということを抱えていました。何をやってもむなしい。意味がわからない。意味がわからない故に主体性がないわけです。

 

主体性がない、とは、元気がない、ということです。

 

小さいときから、選択を迫られる際にこう答えてきました。

 

どっちでもいい、と。

 

僕には妹が居ますが、彼女はいわゆる器量がよく、コミュニケーションも苦手でなく、活発なパーソナリティです。

 

小学生から通信簿があり、それを並べられた時、明らかに僕の方が平凡なわけです。3段階評価で、オール2のような有様。

 

下手したら1が混ざっているような。

 

まぁ、親ならなぜこの子はこうなのだろうか、と感じただろうなと思います。

 

ただ、幼い頃は語彙もなく、気持ちを表現したり、言語化できないわけで、自分ではどうしようもありませんでした。

 

学ぶということが、選択肢を増やすこと、だということが分からず、無気力な日々を過ごしていましたし、ゲームばかりしていました。

 

推薦試験に落ちる、ということを通して学ばざるを得ない状況に陥り、短期集中的に勉強して、高校、大学へ進学しましたが、これは非常に歪なものであったと自覚します。

 

ただ、ある意味、歪なかたちをとらざるを得なかったのも事実です。どうしようもなかったのが本音です。

 

比較とは、モノにおいて用いるべきもので、有情に用いるべきものではない、と考えます。比較を人にも用いるので、苦しみ、苦しめると考えます。

 

 

なぜ比較すべきでないかといえば、有情はすべて異なるからです。なぜ異なるかというと、業が違うからです。

 

業とは行いでもあり、生活における傾向性も含みます。傾向性とは、なんとなく、ということです。

 

なんとなくとは、正しいと思うもの、心地よいと思うものを選ぶ基準です。

 

他者から見れば何の価値も感じられないもの、出来事が自分にとっては忘れられないもの、かけがえのないものであったりするわけです。

 

そして、それは比較できるようなものではないし、その人にしかわからない、感じられないものであったりします。

 

パーソナリティとは無二のものであり、有情、衆生とは二つとして同じものはなく、すべて異なれども唯一性を備えた存在だと思うのです。

 

能力は違います。努力で勝ち得た能力もあるでしょうし、努力できることも能力の一つだと思います。

 

ただ能力が届かない領域がある、努力が至らない事象がある、という現実があります。

 

僕らは無限ではない、ということです。

 

老病死を具足した生を受けている、有限なる存在が、衆生ということであり、人間であるということだと感ずるわけです。

 

しかし、比較をやめることができない。

 

正確にいえば、比較するということしか尺度がない、智慧がないから、やめることができない、故に苦悩は絶えない。

 

結局、真の智慧がない、ということが苦悩の根に存在するのではないかと察します。

 

最後に、よきひとに遇えないということを考え、苦悩の起点を終えたいと思います。

 

南無阿弥陀