むなしさとともに

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もう一度出発する

おはようございます、こんにちは、こんばんわ。ナナシです。

 

まだ完全ではないのですが、マイルストーンを迎えたので、今、考えていることを少し書いてみたいと思います。

 

ここは娑婆であり、決して浄土ではないし、浄土にもならない。

 

自分は全くの凡夫であり、本当のことは何一つ分からない。

 

これが正直な気持ちです。

 

色々な楽しみ、鮮やかなこと、感動すること、沢山のことがありますが、一切は夢幻の如し、月日は百代の過客の如しで、

 

みな過ぎゆきてしまいます。まず、ここに一つのむなしさを感じます。

 

退転退屈という問題です。

 

時間は不可逆であり、諸行無常は道理である。道理とはその領域に存在するものを通底するもので、何一つ無常を免れることはできません。

 

心境や境地も然りで、思えたり思えなかったりすることは縁によって生起するものなので、大地にはなりえません。

 

一方で、いくら佛との値遇を果たしたとて、自分が纏うものは煩悩具足の凡夫の身です。

 

身とは二面性を持ちます。

 

一つは、自身。

もう一つは、自身の所属する世界です。

 

自身は、事実であり、現実です。弱肉強食の身であり、有限の身であり、縁起の身です。

 

悲しいのですが、この世では、生きている以上、必ず食べねば生きることができません。そして、座れる椅子の数は限りがあるので、競争を免れることはできません。

 

決断と行動を要求されますが、そもそも自分がなぜ生まれ、なぜここにおり、何をなすべきか、どうすればいいのか、全くわからないのであります。

 

これは装飾しているわけではなく、本当にわからないのです。僕はこういう存在の有様を無明というのだと考えています。

 

無明はひとごとではない。今、現在の自身の偽らざる現実です。

 

存在の問題は、努力や根性が通用しません。次元が違う、ということだと思います。

 

つまり、別次元の問題を解決できると誤認し、行に励むのを十九願、二十願的発想ということができます。

 

畢竟、自力であります。

 

自力の表層は、自己信頼だが、根本には躊躇がある、その性質は未決定、不安ということです。

 

親鸞という人は、死ぬまで迷いを離れることはできないんだ、と教えてくれます。

 

じゃあ、どうすればいいのだ、と。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、本願に助けられるよりほかにみちあることなし。どの書物にも、このような御心を感じるのです。

 

念佛を称えつつ聞くことにおいて、自分には全く佛の御名を称える心が皆無であることを知らされる。

 

聞名の念佛。

 

わかろうが、わからまいが、佛の仰せに従い、今ここで称えさせて下さる南無阿弥陀佛を助からぬ自身において聞く。

 

ここに何度も立ち返る。迷えば帰り、帰っては、また離れる。離れれば、また帰る。

 

こういう相が具体的現実的な念佛往生のすがた、おはたらきであると思われます。

 

いずれにせよ、大悲には底がない。

 

助からぬ身、浄土ではない世界、娑婆にはたらく底なき大悲、いよいよ聴聞をせねばならないと思います。

 

ではまた。

 

南無阿弥陀