むなしさとともに

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現実への向き合い方 評価について

今年は全然筆が進まず、遅々としていますが、最近思いますことを。

 

僕は勤め人なので、企業に属しています。企業は組織なので、様々な方がおられます。部署間の利害関係、人間関係、指示命令系統や役割と責任の曖昧さ、色々な要素を含んだ組織です。

 

様々な方がおられるので、当然、考え方が違います。考え方が違うので、一つの出来事に関する認知も異なります。

 

深く考える方もおられれば、流してしまう方もおられます。

 

努力、骨折りが必ずしも、評価として認められるわけではありません。僕が属してきた組織における評価基準は、得てして評価者のイメージが多くを占めます。

 

つまり、被評価者と評価者の関係が良好であれば良い評価が、あまりよくなければ日の目をあびない、こんな感じです。

 

まぁ、小さい組織での経験がほとんどなので、大きな組織、立派な組織は違うのでしょうが、現実はなかなか厳しい。

 

ここからが問題です。

 

必ずしも評価されないのであれば、自分も何もしなくても良いのか、ということです。

 

不平不満を口にする人は多い。言葉は大事なものですが、ある意味、軽いのです。そして、相手に伝わりやすい。

 

不平不満は解った。じゃあ、あなたはそれに対して、どう向き合いますか?いつまでに、何を、どうしますか?がより重要だと思うのです。

 

行、具体的な動き、言葉を伴った活動であります。行は表層でありますが、言葉と違ってすぐに相手に伝わりません。準備、段取り、利害調整も必要です。また、案外、やったとしても伝わりにくい、当たり前のことと流されがちです。

 

 

ならば、やはり何もしなくてもいいじゃないかと思うかもしれせんが、やっぱり、だめだと思うのです。

 

評価されるか否かは分からないけれども、実際に現実が変わるわけです。もともとAだったが、実行により、BやCになる。これが面白いわけです。

 

 

 

 

体解、あるいは、再現性ということに深く繋がります。

 

体解ということは、深い学び方なので、容易に忘れません。身を通す、身に引き当てるということは、当事者になるということです。

 

また、経験を血肉化するので、応用が利きます。そうすと、同様のことを別の形でも再現できるわけです。

 

僕は随分、評価ということに難儀してきたのですが、最近、こう思うのです。

 

他者を変えることはできない。

 

ただし、自分には変えられること、変えられないことがある。変えられることを柔軟に考えてみよう、と。

 

大人になりました(笑)なので、評価云々ではなくて、やれることをやろう、というスタンスです。評価は、まぁ、もらえるならもらいますが、それよりは、行ずることに力点を置きます。

 

なので、批評家ではなく、当事者の一人として現実にかかわるということを大事にしたいです。

 

それは、非常に地道なものでありますが、学び方として、深い学び方であろうと思います。

 

南無阿弥陀