大悲とは名詞でなく、動詞であろうと考えます。
つまり(はたらき)であります。
傍観者ではなく、当事者になろうと動く。はたらきかけていく。
事の大小はあるでしょうが、自分の持ち場、役回りの中で、やれることをやっていく、ということです。
善悪はあまり興味がありません。自分がやれることをやることに重きを置きます。
評価は他者が行うものなので、自分にはどうにもなりません。なので、自分か具体的に動いていくことに重きを置きます。
心境に留まらない、ということが大事なのだなと思います。心境に留まると、どうしても、自分と異なるもの、異なる人が気になります。顔も性格も違うし、人生が違うのだから、違って当然なのですが。
しかし、われらに通底するものがある。
それが、現し身を持った存在である、ということです。
また、苦悩を感受する者であるということです。
このことを忘れてしまっては、平等など啓くわけがありません。
やはり、日々新たに求め続けていく、ということが、ザルを水に浸すということであり、川は海に流れていくということだろうと思うことです。
すなわち行は大事だ、という話でした。
大行というは、すなわち無碍光の御名を称するなり。
この自分に念佛を申せしめることにおいて、自分に念佛申す心が微塵もないことを徹照して下さる。そのことが確かである。
本願念佛とは、大いなるおはたらきであります。
南無阿弥陀佛