むなしさとともに

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むなしさは何処から来たるものか

僕の人生における最初の問題は(むなしい)ということでした。

 

この(むなしい)ということを改めて考えると(むなしさに気づいてしまった)といえるかもしれません。

 

他者から見ると、別に不自由なく、いわゆる大切に育てられたのかもしれません。実際、そうなのだと思います。

 

幼い頃というのは、気持ちを言葉にすることができません。故に自分の考えを他者に明瞭に伝えることもできません。

 

故に、むなしい、というのが、ものを欲しがるということになりました。

 

渇く、という感覚でしょうか。物を沢山買ってもらいました。そして、それらをとても雑に扱っていました。いびつな子供であったと自分でも思います。

 

何かで誤魔化さないとしようがないというか。とにかく満たされないのであります。

 

確実に穴が空いている、決定的な何かが足りない、でも、その何かが何なのかがわからないし、どうすればいいのかわからない。

 

まぁ、苦しかったです。戻れといわれたら嫌です。

 

もう少し言語化すると、生活に対する手応えのなさ、意味の分からなさがありました。

 

幼稚園や小学校に入ると、集団生活せざるを得ません。画一的に居らざるを得ない上に、なぜこんなことをしなければならないかわからない。

 

今だったらわかるのです。

 

学ぶことは、自分の選択肢を増やすことに直結している、と。そして、学ぶか学ばないかは自分が選ぶこと、有利な方をその人が選ぶべきこと、と。

 

学ぶことの重要性を認識したので、学び続けて、かつ、学んだことを実際にやってみて、再考、反省しながら、身につき、意識せずそれができるまで繰り返している途中です。

 

ただ、世界は二重構造になっており、日常の下に、存在としての領域が横たわっていて、後者の方がより本質的なのだ、と考えています。

 

なぜなら、自分が意識する以前にこの世に居ったから、です。自分でここにこよう、と、この自分に成ろうと決めた覚えがありません。

 

そして、存在の抱える問題として、煩悩と無常ということがあり、それを正見するのが、釈尊が開顕した仏法だと思います。

 

むなしい、というのは(存在の領域)から起こってくるものであり、自分の心に起こってくるものではあるけれども、自分が起こしたものではない、と思います。

 

故に本質的な領域から届くものである、と考える訳です。

 

南無阿弥陀