むなしさとともに

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摂取不捨の利益

仕事が更に忙しくなってまして、かつ、諸事情で自分のペースで進めることができません。

 

再来月からは恐らく落ち着くと見込んでいます。

 

このブログのタイトルにあるように、僕の人生における課題は、

 

胸に去来するむなしさからどうすれば脱却できるか、

 

言葉を足すならば、

 

生存することに何の意味があるのか、でした。

 

で、今はどうかといいますと、とにかく一所懸命やってます。過去一番忙しいです。意味や価値、そんなものは知らないし、特に興味もない、といえます。

 

更に言語化すると以下のとおりです。

 

むなしさはちっともなくならない。自分の心にあいた穴は、生涯塞がることはないらしい。それをとどまらずきえずたえずという言葉が指し示している。

 

穴があいた存在が自分である、ということ。

 

しかし、穴があいたままで充分である。

 

また、この問題は自分だけの問題かと思っていたが、どうやら、そうでないらしい。

 

このことを指し示した言葉が十方衆生という言葉である。

 

そして、念佛往生には段階があり、念佛一つから仰せ一つに深化せしめられる。

 

称える念佛から、称えさせられる念佛へ。

 

称えさせられる念佛から聞こえて下さる念佛へ。

 

聞即信という言葉があり、これが行き着く処のようである。

 

ほとけさまが決心しておられるならば、それで充分である。

 

その御心は微塵も揺らぎがない、全く躊躇がない。

 

その決心、確信された心が今南無阿弥陀佛の念佛にまで成って聞こえて下さる。

 

 

こういうことであります。

 

僕は、真宗の信者、念佛の行者などというものにはなりとうありません。そんな殊勝なものでないからです。

 

一市民として、ただ生き、力なくいのちを終える、こういう方向を目指します。

 

本当はね、特別に成りたくて仕方がありませんでした。

 

自分に自信がないので、ブランド品を買い、身を飾ったこともあります。高い靴を集めたりもしました。

 

いじめられる痛みを知っているのに、他者を言葉で傷つけてしまったことがあります。ひどいことをしてしまったと、25年あまり経った今も後悔しています。

 

今も競争の最中に身を置いており、会社での役割を果たすために足掻いています。席は限られており、忍耐を求められます。

 

職位が上がらなければ、やれることに限りがあり、今のままでは窮屈なので、上を目指しています。

 

 

全く救われ難い現実と自身です。

 

ただ、帰るべき処が常に伴にある。自分を信じ切って下さり、絶えず喚びづめの大悲がいつも共にまします。

 

 

それが畢竟依であり、我が名を称えよ、汝の後生の全責任はこの弥陀が引き受けるから、お前は念佛して生きてくれ、必ず我が浄土に往生せしめる、というこの口を割って現れて下さるこの一声である。

 

この声を念佛という。

 

この声のほとけさまに助けて頂くばかりで満足でありますし、僕は遊塵として、凡夫として、生涯を過ごしていく、それ以外に特に何もなくて構いません。

 

摂取不捨の利益、すなわち、念佛往生のはたらきの中に今、無有出離之縁の存在のまま、座を与えられている、このことに気づきつつある、そういう毎日を過ごしています。

 

南無阿弥陀