むなしさとともに

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具体的にかかわること

この頃はあまり心境に興味がありません。

 

自分の周りの現実に対して、どう向き合うかが大事であって、現実を外側から批評しても意味がないと思うのです。

 

確かに理不尽で、歪なことは山のようにあります。

 

批判したり、不満をもらすことは簡単なのです。口を動かせばいいだけなのですから。

 

で、何時までに、何を、どうするつもりなのですか、と聞きたいわけです。

 

そう問うと黙り、できないことの言い訳を述べ、去っていきます。

 

これで物事は変わりません。

 

どうすれば、理想と現実の溝を埋められるだろうか?

 

こう考え、企画したことを整理し、予算をとり、承認をとり、予定を組み、中間地点を置きつつ、期日までにやり切る。

 

これを繰り返しています。

 

些末なことから、ある程度まとまった金額を用いることまで、様々ですが、具体的に身を動かしています。

 

他者は、自分以外の人に対し、ほぼ興味がないと言えます。

 

僕自身がそうですし、他者のことを長々とあれこれ考えれるほど暇でないです。

 

以前は、他者の無関心さや評価の得られなさに対し、憎しみを持っていました。

 

今は、そりゃそうだな、という感じで、自分は専ら当事者として、物事にかかわる。

 

地道にすべきことを片付けていく。遂行する。やり切る。期日を守る。ミスしても、代替案で補い、対処する。悪口を慎む。

 

こういうスタンスで、社会生活しているので、他者の批評、評価を恐れず、怯まず、専ら行じている状態です。

 

行はやがて足跡になり、道になる。しかし、自分はもうそこには居らず、ずっと先を歩いている。

 

自ずと結果がついてくると思うのです。なぜならこれまで行じ続けてきたし、現に今行じており、これからも行じ続けていくから、です。

 

そして、結果がついてくれば、他者を黙らせることができます。なぜなら、もう変わってしまっているから、です。

 

当事するということは、この数年、ずっと考え続けていることです。

 

これが、今年のみちのかいのテーマでもあります。

 

南無阿弥陀

 

当事するということを端的に例えると、次のようになります。

 

その場が不潔だと感じたら、自分ですぐ掃除道具を手に取り、掃除し、道具を片付けし、清潔な状態に戻し、静かにその場を去ること。