むなしさとともに

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本当は何もわからない

10月に入り、仕事そのものは少しずつコントロールできるようになりつつあります。

 

ただ、ブログをアップできるほど、考えがまとまらず、雑多な感じなのですが、少し書いてみようと思います。

 

右は左で、左は右なのだ。

 

ふと昨日電車の中で思いました。

 

降り口は進行方向、右側とアナウンスが聞こえてきた時、何何に対して、右とか左とか名付けているだけで、状況や立場にとって右とか左とか、入れ替わってしまうのだな、と。

 

何が言いたいのか、といいますと、

 

善悪を含む二元論は、時代の価値観やその人の立場によって、見え方、意味が違う、ということです。

 

つまり、同じ物事がAさん、Bさんに起こったとしても、希望を見出す者と絶望を感じる者と、それぞれの感覚を基準に良し悪しを判断しているだけで、本当のところ、この事象が何なのか、は全くわからない、ということです。

 

僕も、二度と味わいたくない経験をしたことがあります。自分の驕り高ぶりが、現実の厳しさに完膚なきまで、徹底的に叩きのめされました。これが8年前のことです。

 

この経験は、苦薬でありましたが、ここで、娑婆世界の厳しさ、酷さを身にしみて教育されましたので、今も娑婆世界の技術や思想を学び続けており、学んだことを職場で実験し、微調整しながら自分のものにすることを続けています。社会生活上で、自分は油断する訳にはいかないのです(驕り高ぶりがなくなったという話ではないです、驕り高ぶりはそのままです)

 

今から振り返ると、あの経験は無駄ではなかったと言えるのですが、その時の自分からすると、地獄なわけです。地獄は娑婆世界の中にあります。

 

地獄とは世界ではなく、状況のことだと思います。

 

そして、地獄餓鬼畜生のような状況に陥りかねない危うさが人間にはあるのであります。実は足元のすぐ下にそれらが、今ここで、すでに在る。三悪道だけでなく、修羅も天上も現世に在るように思います。これらは、争いと享楽のことです。

 

 

それだけではなく、ほとけの智慧に出遇うまでは、この世界がどういう所で、自分は実存として、一体何かさえ、わからないのであろうと考えます。

 

もっといえば、たとえ、ほとけの智慧に遇っても、自分は本当は誰で、何をしにこの世界に居るのか、全くわからないのです。

 

これを無明というのだろうと考えます。

 

無明の存在として、今ここに自分として在るのだろう、と。

 

そして、この無明なる自分は縁起の法則の中に居り、誰かや何かに助けられ、関係しなければ一寸も生きておられない、と感じます。

 

しかし、その脆弱な無明なる存在に、ソノママナリデタスケル、ワガクニニソノママウマレサセル、という大悲が、念佛にまで成って聞こえて下さる、それが即ち南無阿弥陀佛である、と教導頂いております。

 

自分が一体誰なのか、ここがどこで、何をどうすればよいかわからぬ者よ、否、わかる力さえ無き者よ、ソノママナリデタスケル、ワガナヲトナエヨという仰せが常に絶え間なくかけられている。

 

それがお念佛であります。念佛の声において、ソノママナリデタスケルの仰せを聞く。

 

自分においては、これだけであります。このことをずっと聞き続けているのであります。

 

南無阿弥陀