僕が(むなしくない)というタイトルで、このブログを始めたのが2015年11月1日でした。
そこから、はや7年ですか。。
続けてこれてよかったなと思い、筆をとっています。
実は、転職して一ヶ月からブログを始めたので、今の職場に務めてからとほぼ同じ時間を並走してきた感があります。
僕は、僧侶ではないので、教学的なことはよくわかりませんが、(凡夫である)ということを抜きにして、真宗、或いは信仰、哲学を語ったとて、空虚であると思っています。
空虚とは、外側だけで、中身がないこと。上辺だけで、言葉と行動がズレていること、格好つけるだけで、たいしたことないこと。
こんな感じです。まぁ、まがいものということです。
虚勢をはる、或いは、他者に対して攻撃的であるのは、不安だからです。
それは、脆弱ということです。
他者に優しくできる人は、他者に無視をされたり、ぞんざいに扱われた時の不快さ、苦しさ、惨めさを知っている人です。
知っているからこそ、礼儀正しく、思いやりがあり、言葉を慎みます。この、知るということが非常に大事なことと考えます。
問題を外に見ず、誤魔化さず、我が内にあると素直に観察することが大事です。生死を抱えているのは、他でもない、自分なのです。
そして、代わりがいないという厳粛さ。
こういう実存としての問題が、真の信仰、真の哲学に至るまでに、くぐらねばならない事柄であると考えます。限界状況は、陥るものではなく、はじめから、ずっと抱えてきたことであろうと思います。
とはいえ、僕の本音をいえば、解る人には解るし、解らない人にはいくら言葉を重ねても無駄なのです。
気づきは、瞬時です。暫時ではない。景色が一変せしめられる、定められるということがあります。何に定められるか、即ち、自分が全くの凡夫だということが智慧によって暴露されるということです。
機縁が熟す、時節到来という言葉でしか表すことができないのですが、結局、真理に出遇う、如来に出遇う、信心決定というのも、そういうことなのであり、
親鸞聖人、法然聖人、善導大師、釈尊、ソクラテス、プラトン、ブーバー、ヤスパース、フランクル、西田幾多郎、西谷啓治、これらの方が言葉を尽くして表現されたことは、即ち(真理に出遇う)という一点であり、
真宗では殊更に(摂取不捨の利益に遇う)、(摂取不捨の故に正定聚に住す)と言われ、阿弥陀佛の誓願不思議に助けられるということです。
このことが、真宗、哲学の要点であり、人間が辿り着くべき場所であり、凡夫の身という原点であり、絶えず、常に、帰るべき処であります。なぜなら、ここから、更に啓かれるものがあるからです。
すなわち、いしかわらつぶてのごとくなる、凡夫なるわれら、十方衆生ということです。
僕の言葉で云えば、この助かりようがないという問題を抱えているのは自分だけでなかった、という気づきです。
このブログは、何度も何度もこのことを考えるブログであります。
南無阿弥陀佛