むなしさとともに

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研修会について

今回で六回目を迎える研修会の案内をさせて頂きます。

 

テーマは(当事して聞く)とさせて頂きました。

 

恐らく(当事する)という言葉は、ほとんど用いず、聞かない言葉だと思います。

 

しかし、僕自身は、このことは、非常に大切なことであると考えています。

 

問題と自分の間に距離があると痛みがありません。痛みがないうちは、気にならないのです。

 

しかし、ひとたび痛みが表れてくると、これを何とかせずにはおれません。だって、痛むのですから。

 

僕の場合は、執拗なむなしさ、でしたが、4歳でむなしさをに気がついて、(自分はこの問題を解決しなければならない)となるまで、16年かかりました。

 

なぜなら(むなしさを言語化できなかったから)です。言語化できないというのは、問題を捕捉できない、ということです。しんどい、しかし、これが何で、どこから来るのか、なぜ苦しいのかわからない。

 

つまり、まず、問題が外にあるのではなく、内にあり、それを後生の一大事と伝統的に言ってきたのであります。

 

研修会には、いろいろな人が参加下さいます。ほぼ、市井の人ですし、僕もサラリーマンです。

 

先生の法話聴聞するのと等しいくらい、市井の人の言葉、課題を聞くのは、大事です。

 

いしかわらつぶてのごとくなるわれら、ということ、これが啓示だからです。

 

これは、自分が直接経験するしかないのですが、この問題を抱えているのは自分だけではなかった、と体解することです。

 

こういうことを考える機会にできれば、と思うことです。

 

もしご興味があれば、コメント頂く(僕に通知、非表示とします)か、ツイッターへご連絡頂ければ、案内させて頂くので、仰って下さい。

 

僕は二日目に三十分程度、お話させて頂くかと思います。

 

南無阿弥陀

 

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