この7年余り、先生方から教わってきたことを自分なりにまとめますと、
《われら》に尽きる、と考えます。
《われら》は(かれら)に対する言葉ではありません。《われら》は汝であり、《われら》の一人として《われ》が成り立ちます。
《われら》とは如来に見いだされた者であり、大悲される者であります。
法は、ダルマであり、道理であり、法則であります。つまり、生きたおはたらきであります。
機、すなわち人間とは、法がはたらく場所であり、法は必ず人を通して、そのはたらきが生きたものであることを表現します。
常に法が主体であり、機は法がはたらく客体であり、この関係は不可逆的であります。
このことを西谷啓治氏は、不可分不可同不可逆と仰っていると考えます。
分かつことができないけれど、同じではないし、関係は不可逆の関係である。
汝とは、喚ばれた者であります。目をかけ、心を配られ、声をかけられた者であります。
すなわち、われらであり、われもまた十方衆生のいちにんである、ということです。
そうすと、沢山の人に会い、話を聞き、共に学び、共に考え、共に悩み、共に苦しむことが大切になります。
他者から教えられることが多いからです。
ここに交わりが起こり、アドリブのような生き生きとしたライブ感を感じます。
何が正解で、何が正しいのか、自分が誰で、何をすればよいのかもわかりませんが、
だからこそ我が名を称えよという如来の仰せが無明の身に響いてきます。
大悲は髄まで貫徹します、自ずと浸透するということかもしれません。聞薫習という言葉がとても好きです。
助かるまじき汝だからこそ、どうか俺に助けさせてくれよ、という大悲の言葉が南無阿弥陀佛。
この南無阿弥陀佛は告げ知らせるということを含んでいる。南無阿弥陀佛には往生決定の響きが籠もっている。
故にいつでも、どんな心でも、どんな有様でも、この声を聞く一つです。
この声すなわち南無阿弥陀佛から何度も何度も教えられるのが《助からぬ身》であり、《助からぬ身》を通して啓くものが、
《いしかわらつぶてのごとくなるわれら》であり、このことを教えられることは無上の宝である、と感じます。
永遠の微調整とは、試行錯誤のことです。試行錯誤が終わらない。終わる暇がない。課題が変質し、展開していく。
自身に引き当てて問い続けていく。考え続け
表現し続けていく。たとえ不完全で歪なものでも構わない。
こけて、擦りむいても、かさぶたができたら、また歩いたり、走ればいい。
辛いときは泣けばいいし、しんどいときは何もしなくてもいい。
移り変わること、即ち、無常は救いでもあるよ。変わっていいんだよ。
それではまた。南無阿弥陀佛
普通の人として生き、普通の人としていのち終わればいい、信者にならんでええねんで。
木村無相さんの言葉です。この言葉だけは、みちのかいが始まる前に話そうと思っていました。
僕はこの言葉を見聞し、随分楽になりました。
自分も訳のわからない凡夫のまま南無阿弥陀佛に助けられて往生させて頂きます。共に念佛して弥陀に助けられましょう。