むなしさとともに

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揺るぎなき共通項

《揺るぎなき共通項》という言葉を手掛かりに考えます。

 

年始に引っかかった言葉は《対話》でした。

 

この言葉はあるテレビ番組を見ていて、有識者が(冷戦)の話をしていた時、こういうニュアンスのことを仰っていました。

 

 

どんなに相手に否があると考えられる場合でも、対話しようとする意欲、門戸は常に開かれていた。相手に逃げ道、落としどころを選ばせる選択肢を残していた。

 

そして、共通の利益を模索していた。

 

ポイントは、

 

対話しようとする意欲、門戸は常に開かれていた。

 

共通の利益を模索していた。

 

 

この二点です。

 

この二点に更に一歩踏み込むと、

 

《自他に、自国と相手国に共通項を見出す、見出そうとする努力を決して諦めない》ということです。

 

このことを僕の言葉で表せば、

 

《ともにかけがえなき三世十方衆生のいちにん》、

 

親鸞聖人の仰る

 

《いしかわらつぶてのごとくなるわれら》です。

 

鳥を見て思う。おぉ、われらよ。

 

犬を見て思う。おぉ、われらよ。

 

人を見て思う。無明という苦悩を共にする人間が居られる。

 

確かに現実には沢山おられるのです。

 

過去にどんなことがあれば、こんなに認知が歪むのだろうか、何故ここまでひねくれておられるのだろうか、と思う方が。

 

ただ、やはり協力や相互理解は物事を進める上で必要なので、僕からのはたらきかけはずっと続けています。

 

性格が全く合わないことも承知の上です。僕は技術と専門知識を以て相対します。諦めません。逃げません。体当たりします。

 

《諦めない》ということを思います。

 

この諦めないことの源泉は、僕の場合は、如来なのです。

 

如来が僕のことを決して諦めて下さらなかった。大悲が貫徹するまで辛抱下さった。待って下さった。

 

この値遇が今の自分の根本にあり、だからこそ自分も対話を、はたらきかけをまだ諦めたくない、と思うのです。

 

揺るぎなき共通項は《われら》です。

 

《われら》を見失うことが、自分を見失うことであり、即ち如来を見失うことです。

 

ただ、見失っても、また帰る処が南無阿弥陀佛、即ち念佛の信心、大悲の本願念佛です。

 

次は浄土の慈悲を考え、

 

終われば、みちのかいのふりかえりに入ります。

 

南無阿弥陀