歎異抄 第四条
慈悲に聖道·浄土のかわりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとくぐること、きわめてありがたし。
浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかに、いとおし不便におもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏もうすのみそ、すてとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
年末年始に思ったことの二つ目が(本当に助かるということはどういうことなのか)ということです。
自分の外に在るものは、やっぱり外のものなのです。たとえ、それが家族であり、友であろうとも、決して自分の内に入ることはない。
私の〜〜という、(私の)がつくものを、自分とする煩悩のはたらきに我所執というそうです。
僕らが我執である、と考えるようなものは、おおよそ我所執のようです。
色々な人を見て思うわけです。
自分の外にあるものを大切にして、夢幻のような楽しみを興じて生きている、と。そして、それは、本当にその人を救い得るものでない、と。
このことを真の意味で理解するためには、直接経験するしかありません。身を通すということです。
例えば、おとぎ話にあります。
狐や狸にばかされていて、気がついたら、野原で眠り、夢を見ていた、と。
あれ、実感があるわけです。多分、ばかされていたと気がついた人の表現である、と。
ばかすのは、狐や狸ではなく、我執にばかされていた、のです。
そして、縁起を憎み、今ここに居る自分を軽蔑し、呪い、否定する根本的なものとして、我執が在る、と。
苦しみの根源として、我執(正確には我執は無明に根差しているといいます)があり、
南無阿弥陀佛とは、これを破るというものであるといわれます。
我執を破るということ、と、我執がなくなることは別のことです。
我執に気がつけば、自分はこれと同居することは決してできません。不可能です。
しかし、これは身と一体になっているものなので、第六意識ではどうすることもできません。
助からないということです。
この時を想定して、汝を助ける、必ず浄土に往生せしめる、という如来の常の仰せが南無阿弥陀佛であります。
僕は思うわけです。
本当の親孝行は、自分が浄土に往生することなのだろうか、と。この道を往けばいいのだろうか、と。
歎異抄では仰っておられます。
念仏もうすのみそ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき、と。
迷ったらお聖教、よきひとの言葉に立ち返ります。
この自分は南無阿弥陀佛に専ら助けられるより、道有ること無き身である、と。
決して助からぬ身であること、だからこそ、必ず南無阿弥陀佛に助けられることは、相は二つだか、一つのこと。
ニ種深信が真実信心の基礎である、と常に聞いております。
そして、唯信仏語決定依行(愚禿鈔)を思い出しました。
南無阿弥陀佛