むなしさとともに

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「ある」ということ

現にあることは、無でなく、非存在でなく、不在でないことです。現に実際にあることは、無ないし非存在からかぎられています。

無や非存在となることが可能でありながら、まだ、無や非存在となっていない状態のことです。

 

してみますと、ある、現にあるは、まだなくなっていないこととしか考えられないように思われます。

 

あるということは、まやかしやいつわりではなく、本当にあるということを意味します。あるが、現にある、実際にあるといいかえられるのは、本当にあるということを含むからです。(実存主義入門 茅野良男 講談社現代新書 p42-43)

 

自分は物心ついた頃からずっと、いわゆるニヒリズムを引き摺ってきた人間であり、生きているということに対し、肯定的な気持ちを持ち難い日々を過ごしてきました。

 

なぜ他のいのちを奪ってまで、生きなければならないのか?今もわかりません。

 

毎日はとても忙しいです。かといって、仕事はやれて当然であり、評価は他者が行い、基準は役に立つか立たないか、コストパフォーマンスが高いか否か、いわゆるメリトクラシーです。

 

三十代のはじめに大きな挫折を味わいました。それまでやってきたことが全く通用しなかったし、幾つかの限界が折り重なるように到来し、身動きが取れなくなりました。

 

それから、月日は流れ、現実は残酷だという思想を得、自分にできることをもう一度やり直しているのが、今の現実です。

 

残酷であるということに対し、どう対応するか?は自分が決めることができます。

 

僕の答えは、現実に対しては、技術で対応するということでした。

 

そして、実存的には真宗を聞き続けていく、自分なりの思想を掘り下げていく、ということに至り、今があります。

 

ただ、今も生きている、存在するということはどういうことなのだろう、と考えています。

 

まだ生きているんだ、という感覚。

 

これは、今まで考えたことがありませんでした。

 

先の文章の中で、まだなくなっていないとしか考えられない、というものがありました。

 

そのとおりだと思いました。

 

無、非存在になり得ながら、なぜかまだ生きている。

 

祖父母は亡くなりましたが、祖父母も生きていましたし、言葉を交わし、はがきをもらいました。

 

その日々は確かに在ったのです。

 

自分はまだ生きている。そして、存在していることの背景に、無数のいのちからの供養を受けてきた、今も受けていて、いのちが終わるまで受け続けていく、ということが実際にある。

 

そうすと、自分のいのちに対する見方は、不思議にも、まだいのちを頂いているというものが妥当なもののように思われます。

 

まだ生きている、というのは一つの驚きでありました。

 

先の本と同時に注文した本があり、シュバイツァーのことばという本で、今日手元に届きました。

 

シュバイツァーの思想の根本に、生への畏敬ということがあるそうです。

 

今日読んだ中で、興味がひかれる文章があったので、最後にそれを引用します。

 

わたしという人間の生きようとする意志において、普遍的な生きようとする意志は、他のもろもろの現象におけるとは異なって、自己を体験する。

 

これらの現象においては、それは個体と化してあらわれる。

 

この個体はわたしが外部から見るかぎりでは、たんに存分に自己を生かすというだけで、他の生きようとする意志との合一にむかって努力するようなことはない。

 

世界は生きようとする意志の自己分裂の修羅の相である。

 

一つの生存は他の生存を犠牲にして自己をつらぬく。一が他を破壊する。生きようとする意志は他の生きようとする意志にたださからおうと意欲するのみで、これを意識しようとしない。

 

しかしわたしという人間のなかでは、生きようとする意志は他の生きようとする意志を意識するにいたった。

 

自己自身との合一にいたろうとする、普遍的になろうとするあこがれが、そこにはある。

(シュバイツァーのことば 浅井真男編 白水社 p11-12)

 

 

シュバイツァー氏の言葉を借りれば、

 

自身においては、ほとけの智慧によって、自分の生きようとする意志が他のもろもろのともがらにも通底している、生きようとする意志が共通項であることに、初めて気付かされた、と言えるのかもしれない。

 

無明が響くということ。無明の存在であるということはわれらの共通項であるということ。

 

ここに、われらということが深い響きを持って立ち上がってきます。これは力強いものであり、しなやかです。そして、そう簡単に諦めきれない願いです。

 

まだ生きている、或いは、確かにともに生きた日々があったし、今ここにある、ということの不思議さを思います。

 

南無阿弥陀