むなしさとともに

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研修会の感想

気がつけば2月に入り、少しずつ日が長くなってきました。

 

12月に開催した研修会から一月半が経ってしまったので、端的なことにとどまりますが、この1記事だけ感想を書きたいと思います。

 

①無事に終わってよかった。

 

②ふとお話された一言の言葉がただならぬ響きをもっている。

 

 

①無事に終わってよかった。

 

この研修会は6回目を迎えて開催されました。初めの一回目は一参加者として、二回目からは開催にかかわる方から参加させて頂きました。

 

そして、直接かかわるのは今回で最後となります。

 

なぜ最後になったかというと、状況が変わり、仕事がとても忙しく、次もこれまでと同様の時間が確保できるとは言えなくなったから、です。

 

場を開くことには、骨が折れます。毎回、事前の準備をもれなく進める必要がありました。先生をはじめ、多くの方のお力添えを得て、今回も無事終わることができたのは、大きな喜びてした。

 

研修会を開くことに関与してみて、一座の法座が開かれる前の背景に触れることができました。

 

 

②ふとお話された一言の言葉がただならぬ響きをもっている。

 

響く言葉はたった一言でよいと考えます。

 

多くを聞く、或いは、話の内容を覚えるのではなく、

 

言葉の方から自ずと聞こえてくる、胸に響くことがある。

 

先生はよく仰います。

 

言葉の響きを聞け、と。

 

 

以前、聞薫習という言葉に尽きると申したことがありますが、

 

お香が炊かれている場に身を置く、お同行と共に先生の法話に耳を傾ける。

 

仏法は毛穴から入るんや。だから、眠っておいてもええんや。聴聞の場に身を置くということが大事なんや。

 

こういうお言葉を、特に年配の先生から何度もお聞かせに与ったことがあります。

 

本当にそうだなぁ、と思うわけです。

 

最後に特に響いてきた言葉を遺して、ふりかえりを終わり、次の歩みに進みたいと思います。

 

·現前僧伽。この一座の背景に先立って道を求めてきた人々の歴史がある。そして、僧伽には公共性がある。

 

·根は見えない場所ではたらく。根は見えたら枯れる。

 

·今ここに居る自分は、真の意味で決して誰ともわかり合うことがないということ、と、なぜ自分が今自分として存在しなければならないかが分からない、存在していいという根拠がない、ということを抱えている。

 

·この無明のわれらに南無阿弥陀佛という喚びかけが常にかかっている。

 

 

先生は今回、僕らと一緒に過ごす時間を長くとってくださったように思いました。ご自坊であられたこともあるかもしれませんが、有り難かったな、と思います。

 

初めて参加して下さった方、或いは、若い人も参加して頂き、一緒に飲食を共にし、同じような課題を抱えて、過ごしている話を聞かせてもらい、刺激になりました。※適切な感染症対策を講じての開催。 

 

僕がお話した際にもらした、人のことがあまり好きではない、という言葉をひろってくれた方が居て、その時に、中高生のときのことを思い出しました。

 

人のことがあまり好きではない、と言ったが、本当は人に嫌われることが怖かったのかもしれないな、と。

 

アドリブやセッションとは、交わりにおいて起こるものでないかと思います。

 

他者との交わりを通して、気づきを頂く。同じ言葉でも、より深い響きをもって何度も何度でも聞こえてくる。

 

仏法の言葉、僧伽で聞く言葉、或いは、他者の言葉や佇まいとは、そういう尊いものであると考えます。

 

他者と出会う、お話を聞くということはとても面白いことです。色々な人に色々なことをこれからも教えてもらおうと思います。

 

 

南無阿弥陀