人が、何かを待つことができるには、ひかりが必要だ。
ひかりとは希望。
将来、こうなるかもしれない。よくなるかもしれない。
夢ともいうのだろう。
おそらく、親鸞聖人の教えにおける、光明には、
阿弥陀如来の光明だけではなく、菩薩の光明も含まれている。
そして、菩薩の光明とは、衆生に生きる希望を与え、何とか、
聞其名号の一念まで、持ち堪えさせることだと感じた。
その菩薩の光明と阿弥陀さんの光明、そして、選択本願念仏の
名号によって、衆生は自分から自由になるのだと思う。
それであれば、自分の役割は、そのひとに一筋でも、かすかでも、
希望を感じうるようなことを行ずるのみ、ということだと思う。
このことは、大きな気づきだった。
ひかりがあれば、人は堪えることができる。待つことができる。
阿弥陀さんのひかりは衆生には見えない。
しかし、菩薩のひかりならば、衆生に体感させうる。
菩薩のひかりとは、きっと行だ。今生での行、そのもののはずだ。
すべきことは、定まった。
あーだ、こーだ考えるではなしに、よろこびそうなことを
行ずる。
その先に、きっとひかりを感じてもらえるはずだ。