むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2018-10-01から1ヶ月間の記事一覧

東山魁夷という画家の作品に、「道」というものがあります。 描かれた道は、これまで辿ってきた道でもあり、 これからまだ続いていく道でもある。 東山氏はこんなふうに仰っていた。 阿弥陀佛の本願は如何なる衆生であっても、 その存在に対して垂直かつ不断…

亡くなった方を偲んで

一年前、葬儀に参列した。 涙が出なかった。闘病の結果、亡骸は 頭髪がまばらでお痩せになっていた。 その時に初めて通しで聞いたのが般若心経だった。 帰りに本屋で般若心経の小さな本を買って、今も時々お勤めをしている。 この一年、般若経に関わる本をい…

七地八地の水際

大切なことは、煩悩を離れることはできないということ。すなわち決して助からぬこと。 そして、煩悩具足、いしかわらつぶての如くなるわれらであること。 七地ではまだ躊躇がある。 八地にはもはや躊躇はない。ひたすら行ずる。 体当たりである。 七地までは…

共に苦悩の凡夫である

いしかわらつぶての如くなるわれら。 親鸞聖人の言葉はあたたかい。 このわれらという言葉の響き。そして、 凡夫という智慧の言葉。 共に苦悩の凡夫たるわれら、阿弥陀如来平等の大悲に摂取され共に往生遂げたし。 十年前、相田みつをさんのこの言葉も大事な…

煩悩を憎まない

煩悩を憎み、叩きつぶそうとしていた。 阿弥陀如来の智慧は煩悩を菩提に変えなしてくださる。 煩悩がなかったならば念仏申すこともなかっただろう。 むなしさがなかったならば、これでよいのだろうかと思うこともなかっただろう。 煩悩即菩提。生死即涅槃。…

諸々の衆生とともに

メダカを飼っています。 彼らは泳いでいるだけで、生産的だと言えないものでしょう。 しかし生産的とはなんだろうか? 僕は知らない。わからない。知りたくもない。 彼らが死んでしまうとただ寂しいし、ただ悲しい。 ただ共にいれたらそれでよい。何人も僕と…

地獄を超える

地獄にいるとしよう。 なぜ地獄か。答える。希望を見出だせぬ故に。 地獄を超えるとは何故ぞ?答える。 我すでに光を蒙る。我すでに光を見出す。 光とは何ぞ?答える。如来なり。一切衆生なりと。 もはや地獄を恐れる必要はない。 何故に?一人ではない故に。如…

念佛に何度でも帰れ

迷いは死ぬまでとれないと親鸞聖人は仰る。 だからこそ助けるの仰せ、即ち南無阿弥陀佛、念佛に帰れ。 そこにはいつでも大悲が待っている。 何度でも信の一念を繰り返す。 難儀で救われようのない現実を堪えしむる、 これが念佛の大悲である。 南無阿弥陀佛

信心の純化と柔軟心の成就

藤谷秀道先生のことばです。 十地経が初歓喜地から法雲地まで述べられて いることにも関わってくると思うのですが、 たとえ信心決定しても、煩悩を具足、即ち 身にまとっていることは変わらぬのです。 それどころかいよいよ深く、浅ましいことを 如何に知ら…

願生彼国

わが国に生まれんと欲え、は本願の心。 それが至り届き、念佛の信心、善知識に お育て頂き、阿弥陀の国に生まれたい、即ち もはや我涅槃も欲さず、諸々の衆生と ともに往生したく、一切衆生往生せずば我 涅槃に入らじ、という微かな光が見える。 これは願生…

求道者

有縁の先生方に言えることは、先生方自身が 未だに求道しておられることである。 自分と倍年が違う先生も、未だに念佛往生の お心をお聖教を通して尋ねておられる。 立ち止まらない。 正しく善知識である。有り難いことである。 南無阿弥陀佛