むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2018-03-01から1ヶ月間の記事一覧

念佛を申す

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし(歎異抄) 無量寿佛の御名をたもて(観無量寿経) 如来、善知識のお勧めにしたがい、ただ念佛を申す。 念佛を申すところに帰れば、自身は煩悩具足の凡夫。 世界は火宅無常の世界。 だからこそ往生させずばおかんと…

自分は何者であり、ここはどこか、が破られる

浄土真宗の救いとは、二種深信であるといわれる。 智慧による深信である。深信とは決定、確定である。 そこに何かが介在する余地は微塵もない。故に決定であり、 確定である。 自分は間違いなく如来の仰る凡夫であるということ。 つまり、決してタスカラヌ身…

むなしさはむなしさのままで

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(正像末和讃) 苦悩の有情とはわれであり、われらであります。 根機つたないとて悲しむなよ。助けるぞよと 喚びたもうなり。親鸞聖人のたまわく、 喚ばふとは喚びづ…

原点

浄土とは原点である。 原点は起点であり、終着点であり、出発点である。 むなしさも苦しさも孤独もなくならない。 いよいよ深まるばかり。 原点に帰ればいつでも聞こえる念佛の響き。 破無明闇の響き。甘露の味わい。大悲のかたじけなさ。 南無阿弥陀佛

大悲を聞け

あるお寺へ行った。お話は機を責めるようなものだった。 自分には不要でしたので、午前中で帰りました。 機を責めたところで、せいぜい自己反省、若干の自己否定で 終わるより他にない。聞いたその時はあぁと思っても、 寺を一歩でたらすぐに忘れ果てるでし…

本願のかたじけなさよ

かたちあるものは移ろい、滅んではまた生まれていく。 ただ如来のみ常住であり、無常と煩悩を超えているが故に、 常住である。 この世の一切はもえている、と釈迦如来は仰っている。 自分が全くの凡夫であり、助かりようがないことを 徹底的に知らしめる。何…

聞くばかり

今口に称え、この耳に聞こえるこの一声を聞く。 それ以外に具体的な本願のおはたらきはない。 この一声の因は法蔵比丘の助けずばおかんの願心。 因がまことならば果もまこと。 この一声を聞く。念佛とは聞くものであります。 南無阿弥陀佛

無常

無常に良し悪しなし。 それを自分の都合にとって良し悪しの色をつけ嘆く。 自然に対してさえ我らはあまりに小さく無力である。 直面する変化に対峙するとき、ただ立ち止まり、 ただ立ち尽くす。 況や何人も死を免れること能わず。 凡夫たるわれに、事実を受…

犀の角のようにただ独り歩め

ここのところアクセスが増えていて、 なんかあったんかなと思っています。 またすぐに元に戻るでしょう。 さて、原始仏教に心惹かれて、このところ中村元先生が 訳してくださった岩波文庫の本を読んでいます。 ブッダのことば、スッタニパータより引用します…

雨もやがて上がる

雨が降っている。 雨はただ降っている。そして、雨が止む。 日が昇り、風が吹き、また雨が降り、草花が茂る。 止まない雨はない。毎日晴天でもない。 悲喜こもごも。光明と闇があるからこそ調和がとれる。 止まない雨はない。雨はやがて上がるだろう。 いっ…

煩悩をくだく光

解脱の光輪きわもなし 光觸かふるものはみな 有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ(浄土和讃) 和讃には、左訓を書いて下さっていて、わざわざ親鸞聖人がこの言葉の意味を ご自身の言葉で残して下さっている。 輪の左訓 くだく。解脱といふは、悟りを…

念佛往生

弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば 極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、 となうるがめでたきことにてそうろうなり(末燈鈔) 親鸞聖人の言葉です。 ただ称えるよりほかに道はなし。 ただ聞くばかり。 南無阿弥陀佛