むなしさとともに

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行と大行

日常が慌ただしく、深く思考したいことは特にない状態です。

 

現在の課題は、現実とどう対峙するかに尽きるので、ここに解釈や意味が介在する余地はありません。

 

正直、毎日、体当りし、行、即ち、自分にできることを重ねているだけなのです。

 

但し、行と大行は明確に分ける必要があります。行はあくまでも自分にできること、それは様々な形をとります。技術などもこれに入ります。

 

一方で、大行はお念佛、他力回向の念佛、浄土真実の行であり、これは自分や娑婆世界に属しませんし、娑婆に籍がない言葉であり、おはたらきであります。

 

お念佛を申しつつ、この耳で聞く。南無阿弥陀佛とこの口に称える。僕においては、これを生涯続けていくのみです。

 

先生から、この道を行きなさいと教導を受けておりますので、この道をそのまま行かせて頂きます。

 

研修会まで、一月を切りましたので、体調に留意しながら準備していきます。

 

自分の人生に特に期待することはありません。一方で過度に悲観もしません。今聞こえて下さる南無阿弥陀佛、このはたらき一つを訪ねていきます。

 

南無阿弥陀

 

 

 

研修会について

今回で六回目を迎える研修会の案内をさせて頂きます。

 

テーマは(当事して聞く)とさせて頂きました。

 

恐らく(当事する)という言葉は、ほとんど用いず、聞かない言葉だと思います。

 

しかし、僕自身は、このことは、非常に大切なことであると考えています。

 

問題と自分の間に距離があると痛みがありません。痛みがないうちは、気にならないのです。

 

しかし、ひとたび痛みが表れてくると、これを何とかせずにはおれません。だって、痛むのですから。

 

僕の場合は、執拗なむなしさ、でしたが、4歳でむなしさをに気がついて、(自分はこの問題を解決しなければならない)となるまで、16年かかりました。

 

なぜなら(むなしさを言語化できなかったから)です。言語化できないというのは、問題を捕捉できない、ということです。しんどい、しかし、これが何で、どこから来るのか、なぜ苦しいのかわからない。

 

つまり、まず、問題が外にあるのではなく、内にあり、それを後生の一大事と伝統的に言ってきたのであります。

 

研修会には、いろいろな人が参加下さいます。ほぼ、市井の人ですし、僕もサラリーマンです。

 

先生の法話聴聞するのと等しいくらい、市井の人の言葉、課題を聞くのは、大事です。

 

いしかわらつぶてのごとくなるわれら、ということ、これが啓示だからです。

 

これは、自分が直接経験するしかないのですが、この問題を抱えているのは自分だけではなかった、と体解することです。

 

こういうことを考える機会にできれば、と思うことです。

 

もしご興味があれば、コメント頂く(僕に通知、非表示とします)か、ツイッターへご連絡頂ければ、案内させて頂くので、仰って下さい。

 

僕は二日目に三十分程度、お話させて頂くかと思います。

 

南無阿弥陀

 

去年

https://nanashi-0.hatenablog.com/entry/2021/11/06/090822

 

一昨年

https://nanashi-0.hatenablog.com/entry/2020/10/31/231743

 

一昨昨年

https://nanashi-0.hatenablog.com/entry/2019/10/05/165251

 

タグ、みちのかいで、過去の記事が表示されます。

 

7年が過ぎました

僕が(むなしくない)というタイトルで、このブログを始めたのが2015年11月1日でした。

 

そこから、はや7年ですか。。

 

続けてこれてよかったなと思い、筆をとっています。

 

実は、転職して一ヶ月からブログを始めたので、今の職場に務めてからとほぼ同じ時間を並走してきた感があります。

 

僕は、僧侶ではないので、教学的なことはよくわかりませんが、(凡夫である)ということを抜きにして、真宗、或いは信仰、哲学を語ったとて、空虚であると思っています。

 

空虚とは、外側だけで、中身がないこと。上辺だけで、言葉と行動がズレていること、格好つけるだけで、たいしたことないこと。

 

こんな感じです。まぁ、まがいものということです。

 

虚勢をはる、或いは、他者に対して攻撃的であるのは、不安だからです。

 

それは、脆弱ということです。

 

他者に優しくできる人は、他者に無視をされたり、ぞんざいに扱われた時の不快さ、苦しさ、惨めさを知っている人です。

 

知っているからこそ、礼儀正しく、思いやりがあり、言葉を慎みます。この、知るということが非常に大事なことと考えます。

 

 

問題を外に見ず、誤魔化さず、我が内にあると素直に観察することが大事です。生死を抱えているのは、他でもない、自分なのです。

 

そして、代わりがいないという厳粛さ。

 

こういう実存としての問題が、真の信仰、真の哲学に至るまでに、くぐらねばならない事柄であると考えます。限界状況は、陥るものではなく、はじめから、ずっと抱えてきたことであろうと思います。

 

とはいえ、僕の本音をいえば、解る人には解るし、解らない人にはいくら言葉を重ねても無駄なのです。

 

気づきは、瞬時です。暫時ではない。景色が一変せしめられる、定められるということがあります。何に定められるか、即ち、自分が全くの凡夫だということが智慧によって暴露されるということです。

 

機縁が熟す、時節到来という言葉でしか表すことができないのですが、結局、真理に出遇う、如来に出遇う、信心決定というのも、そういうことなのであり、

 

親鸞聖人、法然聖人、善導大師、釈尊ソクラテスプラトン、ブーバー、ヤスパースフランクル西田幾多郎西谷啓治、これらの方が言葉を尽くして表現されたことは、即ち(真理に出遇う)という一点であり、

 

真宗では殊更に(摂取不捨の利益に遇う)、(摂取不捨の故に正定聚に住す)と言われ、阿弥陀佛の誓願不思議に助けられるということです。

 

このことが、真宗、哲学の要点であり、人間が辿り着くべき場所であり、凡夫の身という原点であり、絶えず、常に、帰るべき処であります。なぜなら、ここから、更に啓かれるものがあるからです。

 

すなわち、いしかわらつぶてのごとくなる、凡夫なるわれら、十方衆生ということです。

 

僕の言葉で云えば、この助かりようがないという問題を抱えているのは自分だけでなかった、という気づきです。

 

このブログは、何度も何度もこのことを考えるブログであります。

 

南無阿弥陀