むなしさとともに

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静かであること

この頃思いますのは、感情が自分ではないということです。

 

感情を感じ、観る者が自分であるように思います。

 

ここでいう感情は好き嫌い、相性、価値観の相違などを含んだ分別も含んでいます。

 

感情は湧いてくるものであり、沸いてくるものであります。

 

おそらく縁に催されて立ち上がってくるものなのでしょう。感情は快不快であり、過ぎ去るものであり、巡りゆくもののように思われます。

 

一般的には感情と自分が一体化してしまい、境界線が分からない状態に陥っているように思えます。しかし、やはり、自分は感情そのものではなく、感情が起こる場であり、感情を観る者なのであります。

 

社会生活を送る中で、自分は涅槃寂静、涅槃寂滅ということに憧れます。

 

これらの言葉が示す正意は静けさであると思うのです。

 

浄土とは極めて静かであります。

 

しかし、ただ静かなのではなく、必要な時は自在に動ける力、形を変えることができる力を内在した静けさであります。

 

南無阿弥陀佛とは浄土から届く名声でありましょう。形を必要としないものが敢えて選び取った形が南無阿弥陀佛。

 

国土の名字仏事を成す、曇鸞大師の御言葉でしたか。

 

具体的には今ここで称え聞こえて下さる念佛であり、それはそのまま、われらを存在せしめる背景自身の名告りであり、大悲の名声でありましょう。そして、その本質は極めて静かなのではないかと思われます。

 

真宗における信心とは念佛の信心であり、念佛往生の信心。本願とはダルマ、法則であり、南無阿弥陀佛によって念佛の信心が回向された者は否応なく必ず真実報土に連れていかれるのでしょう。

 

この世はあまりに騒がしく、自他共に分かり合い、受け止め合い、尊重し合い、助け合い、支え合うことがどうしてもできません。基本的には利害関係があり、心身、財産に限りがあるからです。

 

一方で本願、大悲、智慧、如来、ダルマには限界が存在しません。そして、人間の煩悩に左右されることなく貫いて下さる無碍の光というお徳がまします。

 

そして、摂取不捨というはたらきをわれらに実現させずばおかないとはたらき詰めなのでありましょう。

 

親鸞聖人が帰命尽十方無碍光如来と阿弥陀佛のことをたたえれた御心の一端に触れさせて頂くことです。

 

 

社会生活は忙しく、特に、これからの1年半は勝負の時になりそうです。

 

難易度の高い仕事に入るのですが、周囲の方の力を借りつつ、良い結果が出せるよう、時代遅れになってしまったものを整理し、極力シンプルな形で仕上げられるように尽力したいと思います。ある意味、自分が今まで学び経験してきたことを表現する機会でもあるので、最後まで完走したいと思います。

 

ではまた。

 

南無阿弥陀佛

足下と足元に立ち返る

ひどい更新頻度ですね。日々忙しくやっております。

 

日常に埋没しておりますが、ある意味安心して埋没しています。世間と真宗の間に水際はありません、シームレスです。

 

さて、結論を。

 

端的には、原点に帰る、原点に学ぶということです。

 

 

 

7月は月の約3分の1、聞法の機会に恵まれました。特に心に残ったのは、三帰依文のお話でした。

 

先生は、三帰依文を唱和される時、悩んでいたそうです。唱和しているもののこの言葉と自分の心が一致しないことに。

 

でも、先日こうおっしゃいました。

 

真実の帰依の言葉を称え、聞くことにおいて、胸に響いてくるものが時折起こり、言葉の響きを聞いているのだ、と。

 

なるほど、三帰依文を通して自分が全く助からぬ者であること、煩悩具足の者であることが暴露され、同時に、この自分を照らす光、摂取下さる大悲が常に共にましますことを何度も何度も知らされるのか。

 

人間は外物を見たり、取り込んだりして自分を支えようと、何かになろうとするように思うが、本来は逆の発想が必要に思う。

 

足下に立ち返り、足元を掘り進めていく。

 

足下とは今ここにいる自分の現実あり様であり、足元とは今ここにいる自分を存在せしめ、かつ、自分が所属する世界、時間と空間と歴史を在らしめているはたらきであり背景、寿命無量のことを指す。

 

足下と足元に帰れば、法が常にはたらいてくださっており、われらは法によって助けられる存在であることが想起される。

 

これが最も大切なことではないかと思う。

 

南無阿弥陀佛は法である。凡夫を佛に変え成す法の名である。

 

信心も念佛も往生も成佛も南無阿弥陀佛の中に総て治まっている。

 

寿命無量に返すのも南無阿弥陀佛の智慧と慈悲と方便のはたらきであり、足下と足元に最初からずっとましますのも南無阿弥陀佛だったのだな。

 

もはや今は大悲と大悲のいわれを聞くばかりです。自分の心境に用事なし。

 

南無阿弥陀佛

 

無為自然

少し文字起こししたくなったので、書いておきます。

 

今まで作為的というか、意図を持ってというか、何らかの方向性のもとに手段を講ずるような形で生きてきたのですが、もはや、そんなことをする必要もないのではないかと思ってきました。

 

野放図という訳ではなくて、できるだけ、現実に向き合う中で意思決定を繰り返したり、自分の力が及ぶ範囲でできるだけのことをするという感じで十分なのではないかと思う訳です。

 

清沢満之先生の言葉に分限というものがあり、同じことをエピクテトスも仰っているようです。

 

つまり、如意なることと不如意なることを分けて考えなさい、ということと受け取っています。

 

自分は如意なることに集中します。不如意なることは不如意なることと認識し、傍らに置きます。

 

つまり、限界状況を自分はどうにかすることが出来ないということです。これは自分を超えているものだと思うのです。

 

これと同じで、他者を変えることはできません。他者を変えるということは他者の認知、認識を変えるということです。

 

僕は他者は他者自身の意思決定を行う力が内在されていると信じます。

 

故に、問題提起や対策を提案しますが、どうするかは相手が決めることです。そして、相手を作為的に操作することもしません。

 

確認はします、それでよいのですね、と。

 

また、どうしても譲ってはいけない場面では闘います。

 

しかし、それでも、どうにもならぬことはどうにもならぬと認識します。

 

無為自然と言っていいかどうかは分かりませんが、今は赴くまま流れ、流れていけばいいかなと思っています。

 

智慧の念佛、信心の智慧、南無阿弥陀佛が常に共にまします。不可逆不可分不可同の大悲が自分のいのちと共にまします。いのちとして支えてくださっている。

 

ここに足を下ろし、念佛申しつつ、聞いていくばかりです。

 

ちゃんと智慧が教えてくれるので、心配無用です。

 

まことにこの智慧と大悲は信頼に値するものであります。

 

南無阿弥陀佛