むなしさとともに

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維摩経の一説

大乗仏典7 維摩経 首楞厳三昧経 p79中央公論社より

 

病気の根源

 

その病の根本とは何か。対象をとらえることが根本です。対象としてとらえられたものがある限り、そのものが病の根本であります。何をとらえているかというと、全世界(三界)を対象としてとらえているのです。

 

対象をとらえるという病の根本を知るとは何か。それは、とらえないこと、見ないこと(不可得)であります。見ないとは対象を取らないことであり、何を見ないのかといえば、それは内にある(主観)と外にある(客観)と、二つの観を見ないのであって、それゆえに見ないといわれるのです。

 

主観と客観を見ない、とはどういうことなのだろうか。

 

これは言葉であるが、この言葉を生み出す思想、土台とは何なのだろうか。

 

如来の悟りとは一子地といわれる。衆生と自分を分けて見ない故に、抜苦与楽を諦めない。

 

本当の苦悩の原因を抜断することをどうしても成さざるを得ない。

 

如来の作願をたずぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて

大悲心をば成就せり(親鸞聖人)

 

どうしても菩提心、仏に成りたいという意欲が起こらないもののために、菩提心までこしらえて下さって、今、ここに、この身に、南無阿弥陀佛と喚びかけて下さっている、と善知識は仰る。

 

生活を通して、大悲の心を尋ねたいと思う。

 

厳しい世界、冷たい有情が溢れ返ったところがこの世界だと思う。

 

ここで自分が頂いている大悲を如何に表現するか、どう現すか、これが今、問われている課題であり、仏法で、問われるのは常に自身の在り方であり、他者の話ではない。

 

今、ここにいる、自身の在り方が問題である。

 

 

善悪の差異

人と人が衝突し、摩擦が生じる理由は、

 

善悪だと感じた。

 

人によって、善悪が違うのだ。

 

常識だ、と思っていることが違う。

 

自分と違うことをする人に対して、違和感を

感じる。そのことを許せないというか、

我慢できないというか。

 

いろいろなことを学ぶにつれて、人が色々なことによって形成されることを知らされる。

 

似ている人も居るだろうが、そうでない人の方が圧倒的多数のはずなのだ。

 

できる人もいれば、できない人もいるし、できるのはそれが当然に行われている環境にいたからできるのであって、

 

それがない環境であれば、考えることも経験することもないのだから、できなくて当然だ。

 

ただ、その人がそうなってしまったのは、その人が育ち、学んできた環境、人に依るところが大きいはずだ。

 

そうすると、結局、何が正しくて、何が間違っているのかは、わからないのだ。

 

そして、故に、自分と違う人との差異を許容

する、せざるを得ないと思うのだ、

 

 

仏教に帰依するということは、自分が必ず正しいという錯覚をへし折られることと、言っても差支えないと思う。

 

それくらいのことがなければ、自分自身を顧みることもないのが、実際の現実だろうか。

 

やはり人間であることは、とても苦しいと僕は感じている。

 

 

金剛不壊

たとえば金剛は百千劫において水中に処して、爛壊し異変なきがごとし。菩提の心もまたかくのごとし。無量劫において生死の中·もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減なし。

顕浄土真実教行証文類 信巻 親鸞聖人 大谷派真宗聖典p2 2 2)

 

阿弥陀如来回向の信は、煩悩にもさえられず

 

悪業にもさまたげられず。

 

涅槃の真因はただ信心をもってす、との

 

親鸞聖人のお言葉。

 

煩悩が信を侵食することはできない。

 

質が違うからだ。信は浄土に属すると先生は

 

仰った。

 

信のはたらきは、汝正に凡夫なり、と信知せしめて下さるもの。

 

そして、だからこそ、決定してわが浄土に必ず往生せしめん、という法のはたらきも同時に信知せしめて下さる。

 

凡夫であると知らしめられることが、救いの中身である。

 

これはどうやっても助からない、道がないということと同義であるが、

 

不思議なことに、決定とは安心なのだ。

 

底まで落ちると、大地があり、足を下ろすことができる。

 

常に念佛せよという本願に立ち返ることが、

 

念佛往生の中身である。

 

往生とは反復である。

 

無限なる反復をもって涅槃に至らしめられる。

 

如来の不可思議なる誓願、釈迦如来の底なき

 

慈眼と大悲方便で決定して、浄土に往生せしめられる。

 

大悲は脈々と伝えられるのだ。

 

諸仏の伝統によって。諸仏とは如来の本願に

 

助けられ、感動していった方々のことであります。