むなしさとともに

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足下と足元に立ち返る

ひどい更新頻度ですね。日々忙しくやっております。

 

日常に埋没しておりますが、ある意味安心して埋没しています。世間と真宗の間に水際はありません、シームレスです。

 

さて、結論を。

 

端的には、原点に帰る、原点に学ぶということです。

 

 

 

7月は月の約3分の1、聞法の機会に恵まれました。特に心に残ったのは、三帰依文のお話でした。

 

先生は、三帰依文を唱和される時、悩んでいたそうです。唱和しているもののこの言葉と自分の心が一致しないことに。

 

でも、先日こうおっしゃいました。

 

真実の帰依の言葉を称え、聞くことにおいて、胸に響いてくるものが時折起こり、言葉の響きを聞いているのだ、と。

 

なるほど、三帰依文を通して自分が全く助からぬ者であること、煩悩具足の者であることが暴露され、同時に、この自分を照らす光、摂取下さる大悲が常に共にましますことを何度も何度も知らされるのか。

 

人間は外物を見たり、取り込んだりして自分を支えようと、何かになろうとするように思うが、本来は逆の発想が必要に思う。

 

足下に立ち返り、足元を掘り進めていく。

 

足下とは今ここにいる自分の現実あり様であり、足元とは今ここにいる自分を存在せしめ、かつ、自分が所属する世界、時間と空間と歴史を在らしめているはたらきであり背景、寿命無量のことを指す。

 

足下と足元に帰れば、法が常にはたらいてくださっており、われらは法によって助けられる存在であることが想起される。

 

これが最も大切なことではないかと思う。

 

南無阿弥陀佛は法である。凡夫を佛に変え成す法の名である。

 

信心も念佛も往生も成佛も南無阿弥陀佛の中に総て治まっている。

 

寿命無量に返すのも南無阿弥陀佛の智慧と慈悲と方便のはたらきであり、足下と足元に最初からずっとましますのも南無阿弥陀佛だったのだな。

 

もはや今は大悲と大悲のいわれを聞くばかりです。自分の心境に用事なし。

 

南無阿弥陀佛

 

無為自然

少し文字起こししたくなったので、書いておきます。

 

今まで作為的というか、意図を持ってというか、何らかの方向性のもとに手段を講ずるような形で生きてきたのですが、もはや、そんなことをする必要もないのではないかと思ってきました。

 

野放図という訳ではなくて、できるだけ、現実に向き合う中で意思決定を繰り返したり、自分の力が及ぶ範囲でできるだけのことをするという感じで十分なのではないかと思う訳です。

 

清沢満之先生の言葉に分限というものがあり、同じことをエピクテトスも仰っているようです。

 

つまり、如意なることと不如意なることを分けて考えなさい、ということと受け取っています。

 

自分は如意なることに集中します。不如意なることは不如意なることと認識し、傍らに置きます。

 

つまり、限界状況を自分はどうにかすることが出来ないということです。これは自分を超えているものだと思うのです。

 

これと同じで、他者を変えることはできません。他者を変えるということは他者の認知、認識を変えるということです。

 

僕は他者は他者自身の意思決定を行う力が内在されていると信じます。

 

故に、問題提起や対策を提案しますが、どうするかは相手が決めることです。そして、相手を作為的に操作することもしません。

 

確認はします、それでよいのですね、と。

 

また、どうしても譲ってはいけない場面では闘います。

 

しかし、それでも、どうにもならぬことはどうにもならぬと認識します。

 

無為自然と言っていいかどうかは分かりませんが、今は赴くまま流れ、流れていけばいいかなと思っています。

 

智慧の念佛、信心の智慧、南無阿弥陀佛が常に共にまします。不可逆不可分不可同の大悲が自分のいのちと共にまします。いのちとして支えてくださっている。

 

ここに足を下ろし、念佛申しつつ、聞いていくばかりです。

 

ちゃんと智慧が教えてくれるので、心配無用です。

 

まことにこの智慧と大悲は信頼に値するものであります。

 

南無阿弥陀佛

 

 

 

期末

今日は3月末、期末にあたります。

 

仕事柄、ここから二ヶ月間はタイトな状況に入っていくので体調に気をつけながら丁寧にやっていきます。

 

今期は、今まで準備してきたことがある程度結実した感がありました。

 

数年余り、そうなるかもしれないと想定し進めてきたことがあって、準備をしてきたことが奏功し、滞りなく完遂したことがあります。これは資格が役に立ちました。なぜなら前例がないことだったからです。

 

また、前期コントロールできなかったことを反省し、今季はコントロール仕切れたこともありました。

 

来期進めていくことも期中に確定しました。

 

更に来期追加で収益となることも幾つか仕込み切ることもできました。

 

個人的には悪くない1年だったなと思います。

 

年齢的に、実務的なことから少し距離を置くべきだと思っているので、戦略や企画、構造転換、問題提起と複数の対策提案など、こういうことに重きを置けるように、シフトさせたいと思います。

 

 

娑婆の生活そのものが念佛に包まれている。如来に大悲されている。しかし、われらには娑婆を出る智慧が起こらない。

 

こういう感覚があります。

 

智慧の念佛、信心の智慧、即ち南無阿弥陀佛と、南無阿弥陀佛のいわれを懇ろに説いて下さる先生方なかりせば、自分の人生、自分の生存は全き暗黒でありました。これは中々苦しいものでありました。

 

今こここの身において、ようやく浄土の兆しを直感しつつあるというか、暗黒が破れ続けている感覚があります。

 

無明は迷いの構造かと思ったのですが、おそらく、迷いの核です。

 

南無阿弥陀佛は迷いの核を徹照して下さる無礙の光明であります。

 

核が壊れれば自ずと構造は滅びます。

 

構造とは我執を起点にする業であり、この身でもあると考えます。

 

寿命が残存する間はこの構造も保たれますが、必ず死に至るので、迷いそのものもそれと共に滅ぶ。

 

真宗の救い、正定聚不退転とは、摂取不捨の故に定めしめられるものであります。

 

摂取不捨とは、われらのいのちをいのちたらしめるはたらきと不可分であり、常に接触しているという事実を取り戻すということのように思います。

 

本来性を奪い返すという意味があるのでないかと思うことです。

 

これから2ヶ月、しっかりやり切ってきます。ではまた。

 

核は確実に壊れつつありますが、核がある以上、煩悩からは離れられないのでしょう。煩悩は執拗なものですが、これがなければ仏法を聞くことも、娑婆を出たいとも思わなかったでしょうね。

 

 

南無阿弥陀佛