むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2018-12-01から1ヶ月間の記事一覧

忍耐は練達を

一年を振り返ると、またたく間だったような 気がするが、実りある一年だった気もする。 何が実りかというと、言葉にはならないのだが。 年末に次の言葉に出会った。 苦難は忍耐を。忍耐は練達を。 練達は希望を生む。 キリスト教のお言葉らしい。 練達とは柔…

ボヘミアン・ラプソディー

先日、ボヘミアン・ラプソディーという 映画を観た。 フレディー・マーキュリーという人、 クィーンというバンドのお話だった。 感想は、個人的に非常によかったのだが、 映画を通して、 自分が気がついていなかった、 いや、薄々感じてはいた寂しさ、 すな…

所在

娑婆には自分が自分でおれる場所がない。 本当にすべてさらけ出すこともできない。 また、 自分を受けとめうるものはいない。 如来とは浄土であり、浄土は如来であると いえよう。 寂滅、寂静、無為涅槃。こういう言葉に 心惹かれる。求めている世界である。…

ただ聞かせて頂くばかり

本願力回向で往生せしめられる。 平等の慈悲にもよおされて、 あまねく一切を摂せんとわれらのために 立ち上がってくださったのが、法蔵菩薩で あると教えて頂く。 いちいちの本願にのたまわく、 われ汝を往生させずば、誓いて佛になること あることなし、と…

主体性の回復

主体性は純粋な願望から生まれる。 本願は純粋、即ち一心である。 信心決定とは、存在の回復、 捨てたくなるような人生を奪い返すと、 和田先生は仰った。曽我量深先生は、 物質に精神が支配されているのが、 我々の通常の有様だと仰っている。 如来の本願を…

南無阿弥陀佛のおこころ

浄土真宗は南無阿弥陀佛におさまる。 こう述べても差し支えないだろう、これで存 在の決着がつくからである。 久遠の願いが南無阿弥陀佛によって成就せしめられるからである。 その故は、信心の体は南無阿弥陀佛、 信心を開き発してくださるは南無阿弥陀佛の…

真実に出遇う

人間は真実を掴むことはできない。 即ち有限なる故に。 真実は無限なり、はかりなきいのち、 はかりなきひかりと仰せられる。 掴むこと能わずとも値遇することは できる。即ち乃至十念若不生者不取正覚の 誓いに帰命する一念の信心起こるとき、 摂取不捨の大…

佛語を頂く

平素のやりとりの中で、佛語を聞く場面が ある。あぁ有り難いことやと思う。 懸命、ひたむきな姿に如来が宿る。 真実に至るという意味の曹洞宗のお言葉。 佛縁のない方から聞くと特に有り難い。 ちゃんと如来がはたらいておられると 安心するのであります。 …

煩悩は苦しいがそれだけでは終わらない

他の方はどうかしらないが、 まぁわが煩悩は静まらず、落ち着きがない。 他者を責め、今与えられている境遇にも 感謝がない。不満ばかりである。 頂いた佛恩を忘れて、まことに粗末な 有様であります。そういう心しかない存在が 自分であると知らされるので…

閉)なぜ自力では助からないのか⑦

もはや自力にこだわる必要なし。 仏さまが常にわれらと共に居て下さる。 憶念とは他力を表す。仏さまがいだきとり、 心配するな、必ず往生させると喚んで 下さる。娑婆は苦しく、悲しく、全く孤独で あるが、仏さまはあたたかい。 今、ここに、助からぬわれ…

師は弟子に出遇い成就する

大切なことに気がついた。 師は弟子に見出されることを通じて、 初めて師として成就するのだと。 法然聖人は親鸞聖人に勢至菩薩の化身に違い ないと見出された。そこで法然聖人自身も 救われたのだと思う。 お釈迦様は決して自分は如来であるなどとは 言わな…

諸悪の根源

朧げながら、次第に明らかになってきた。 なぜここが娑婆で、自分は凡夫であるか。 争いが止まず、絶えず衝突と摩擦を繰り返すのか。 無明、すなわち、無知である、無知が 存ずる故である。 知らないから、無関心だから、 相手を知ろう、受け止めようともが…

知らせたいことがあるから、呼びかける。 召喚とは、喚ばふ、喚びづめである。 わざわざ名となり、声にまでなって、 南無阿弥陀佛と呼びかけて下さる。 文句のつけようがない。 南無阿弥陀佛