むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2018-06-01から1ヶ月間の記事一覧

如来の仰せ

助けるでたのめ。 任せよと仰せ下さる如来を南無阿弥陀佛という。 仰せに帰順する、従う、託す。これが帰命の相。 念佛の行者は無相。無相故に印がない。わからない。 社会に溶け込んでいる。 違いがただ一つあるとすれば、その人は如来の仰せにしたがって、…

名も無き翁の話

彼は何も語らない。 彼ははたらきをなしている。 しかし、それは見えない。 誰からも見向きもされず、 気づかれず、感謝されることもない。 彼は黙っているが語らないのではなく、 語る必要がない。だから黙っている。 僕は彼のようになりたい。 知っている…

何も与えない形で与えられる

何かの形で与えられない。何も与えない形で与える。これが般若波羅蜜の智慧、如来のはたらきである。自分は形ある、感受できることばかり欲しがる。不可思議の佛法、智慧のはたらき。般若波羅蜜、信知させるはたらき。いつ死んでも必ず往生させて下さる願力…

えにし

花が咲いている。 鳩が歩いている。 虫が止まる。 人に出会う。 不思議なことだと思う。 なぜこの人とともにいるのだろうと。 因縁、縁起生によって成り立っていると 聞いている。 なぜ出会うのだろう。なぜ共に時間を 過ごすのだろう。 考えてもわからない…

信心決定後の人生について

如来に出遇う。 これは人間にとって、決定的な出来事であり、古来次のような表現で表されてきた。 聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転(佛説無量寿経 第十八願成就文) 不退転地に至る(沢山の経典で拝見しているため、割愛) 信心決…

愚者になりて往生す

浄土宗のひとは愚者になりて往生す。 親鸞聖人は法然聖人からこう聞いたと述懐される。 愚者とは煩悩具足の自身を如来に託したものである。 煩悩具足とは拭いされるようなものではなくて、 自分は煩悩のほかに何もない、どうにもならないという ことだと実感…

ただ称えよの仰せ

生き死にの道はただただ南無阿弥陀ただ称えよの仰せばかりぞ木村無相さんの最後の詩だと聞いている。弥陀の本願とは、たった十声なりともわが名を称えるばかりで必ず往生させる、もし叶わずば佛にならじという驚くべき大悲の仰せであるとは知らなかった。称…

欲界

ここは娑婆ともいい、欲界とも言うと、聞いている。生まれる、食べる、死ぬ、また生まれる。食物連鎖、弱肉強食、こういう有様に対して、自分は、あまりに無力であり、無知であると思いしらされる。三帰依文の中で、最近は智慧海の如くならん、という響きが…

原点

信心とは原点である。自分が起こせるものではないが、自分に起こらしめられたものである。帰入功徳大宝海、入正定之聚と親鸞聖人は仰る。信心と念佛が交互にはたらいて下さり、凡夫の私を迷いの身に引き戻す。そうすと、功徳大宝海の智慧の波が煩悩、我執、…

ひたすらに

わが名を称えるばかりで、必ず往生させる。われを憑め。南無というは帰命、すなわち本願招喚の勅命なりと親鸞聖人は残してくださった。今はただ念佛が聞こえるほかに何もない。自分に信心はない。しかし、阿弥陀如来に揺るぎない智慧と久遠の大悲がまします…

生苦

生苦を感じる。 人は老い、病で死ぬのではなく、 生まれた、生まれるが故に 死に至る。 無明が存続する限り、また 生死流転すると如来は仰る。親鸞聖人は法然聖人の選択集より引文されている。 還来生死輪転家 決以疑情為所止(以下漢字七文字の句は全て正信…