むなしさとともに

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2023-01-01から1年間の記事一覧

なぜ枝を切り落とすのか

今日は立冬とのこと、月日は百代の過客とは本当ですね。 でも、今年はとても忙しいので一年が長く感じます。 今回はタイトルについて、考えを述べます。 自分が勤める会社の敷地には一本の木があり、多くの枝葉があります。 枝には紅葉しつつある葉がついて…

座標を獲るということ(所在)

時間が経つのは早いですね。今月はこの記事の投稿だけになりそうです。 今回は、所在について考察します。 まず結論を。 (ここは娑婆なので、何処にも居場所はない。あえて自らの座標があるとすれば互いの自身のみである)と考えます。 むなしさを(所在)…

座標を獲るということ(存在)

何となく長文を書く気分になれず、 このところ、一ヶ月に一度の投稿がやっとですが、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。 むなしい、ということの本質は何かということを考えると、次のように感じます。 (存在)人生における手応えのなさ、自分が存在する…

救いとは何か(和田稠先生の言葉)

救いは常に現前の救いでなくてはいけない。救いの予約が救いではない。 救いというのは「今、ここに」、という現前の救いでなくてはいけない。 救われようのないような現実を、そこに自分の唯一の生きる道があるんだ、と言っていうならば現実をうばい返すん…

大乗の魂「願心」

人間は死ぬまでなににぶつかるかわからんのです。しかし、なにが来ても、それを転じていく。そういう生活態度が願心といわれるものでしょう。 中略 病気をしたとか、火事にあったときとかの準備を、今からしておくのではない。 いつでも裸でぶつかっていける…

大乗の魂「観」

考え続けるのは流転だ。 考えをやめるのは流転を一服したことです。だから、煩悩だろうが悪業だろうが、全て世間というものを倫理的に反省して、つまらんとかなんとかいって、腹を立てたり自己嫌悪したり神経質にならずに、よく見なさいと。 よく見れば、す…

大乗の魂「危機が転機となる」

思い通りに生きていたら、どこまで人間は転落していくかわからんのです。 そこに、壁にぶつかるということが、一つの転換になる。 悲劇ということは危機である。しかし、それは結論ではない。 悲観してしまったら結論になってしまうのです。悲観するのは煩悩…

大乗の魂「宿業ということ」

個人的な話になりますが、火事にあいまして、もう一ヶ月ほどたちましたが、それまで考えていたこともあったわけですが、火事にまぎれて感想がどこかへ飛んでいっちゃって、今さら思い出そうとしても、出てこんのですがね。しかし、火事ということについて感…

雑記

この文章の前に、作りかけていたものがありましたが、投稿するのはやめました。 何か繕っているような、格好つけてるような感じがしたから、です。 新年度に入り、自分の役割が変わるので、緊張しないわけでもないし、重たいことだとも思っています。 ただ、…

届かないということ

人間は迷いの存在である。 よって、限定的な存在である。 限定的とは、有限であることを指す。 有限であるということは、思い通りにはならないこと。 思い通りにならないことを(苦)という。 サンスクリット語でdukkhaという。 僕らは思い通りに進んでいくこ…

聞薫習

更新の頻度が遅くなってきており、見に来て下さる方には申し訳なく思っております。 遅くなっている理由は、とても忙しい。これだけです。 ツイッターは短文なので、その時に思うこと、感じたことを投稿しやすいのですが、ブログのようにある程度考えながら…

研修会の感想

気がつけば2月に入り、少しずつ日が長くなってきました。 12月に開催した研修会から一月半が経ってしまったので、端的なことにとどまりますが、この1記事だけ感想を書きたいと思います。 ①無事に終わってよかった。 ②ふとお話された一言の言葉がただならぬ…

「ある」ということ

現にあることは、無でなく、非存在でなく、不在でないことです。現に実際にあることは、無ないし非存在からかぎられています。 無や非存在となることが可能でありながら、まだ、無や非存在となっていない状態のことです。 してみますと、ある、現にあるは、…

すえとおる慈悲とは

歎異抄 第四条 慈悲に聖道·浄土のかわりめあり。 聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとくぐること、きわめてありがたし。 浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲をもって、…

揺るぎなき共通項

《揺るぎなき共通項》という言葉を手掛かりに考えます。 年始に引っかかった言葉は《対話》でした。 この言葉はあるテレビ番組を見ていて、有識者が(冷戦)の話をしていた時、こういうニュアンスのことを仰っていました。 どんなに相手に否があると考えられ…