むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

2019-01-01から1年間の記事一覧

2019年

忍耐を学ぶ一年だった、こう言える。ただ耐えるのではなくて、先を見据え、堪えつつ、準備をしていく。 一歩一歩。ゆっくりかつ確実に。学んだことを実行し、失敗し、忘れては、また思い出して。遅々とした進み方であったが、地に足をつけて進んできた。その…

人間の罪、自分の罪

夕食の準備のため、買い物に出掛ける。沢山の人がスーパーに来ている。陳列された棚に微かに動くものがある。活きエビが並べられている。弱々しくもまだ確かに生きていた。 水揚げされてからどのくらい、生きていられるものだろうか。 少し立ち止まり、すま…

助けられている

独りでは生きていけない。必ず誰かに力を借りて、毎日を送っている。だから、情けは人の為ならず。誰にも迷惑をかけてはなりません。こう教わってきましたが、僕にその生き方はできませんでした。沢山の人に支えられ、いのちに支えられ、今を生きています。…

もはや道なし

念佛の他にわれ道なし。まことの大悲の仰せに従い、念佛して生きていくよりほかに何もなし。宇宙の一切から見捨てられても、如来常にわれとともにまします。この一点は不退である。疑いあることなし。煩悩の根本を破る、汝を必ず浄土に生まれさせると誓って…

恩師がましますこと

報恩講のご縁を賜り、改めて思う。先生がましますこと、とても有難いと。生きた先生のすがた。ひたすら念佛されている後ろ姿。質問したら速やかに、真摯に応えて下さる。先生がいなければ、独りよがりで終わってしまっただろう。念佛に親しむこともなかった…

一切の悲しみが尽き果てるまで

これが自分の願いであります。ずっと見失っていた願い。埋もれていた願い。むなしさは願いを見失っている証。願いを持って、諸人と、衆生と共に生きる。心をすがたに現す。やっと願いを奪い返すことが叶った。あとは、具体的現実において、願いを表現してい…

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり

いつも善悪で迷っている。どうすればいいのだろうか、と。しかし、誰にとっての善悪か。それを計るのは誰か。自我、自分に真の智慧なし。故に総じてもって存知せざるなり、と仰る。時と場合、状況、心境によって自我の物差しは変わる。自身を守るために。誠…

汝、懐に入るべし

不可思議なる如来の教法。確かに善巧方便を賜りました。こういうことが時々起こる。 どうすれば、歪みを埋めれるか?即ち、自分の動き次第なのですね。 言い訳を重ねるより、今できることをしなさい。利用できるものを使い、相手のことを知る努力をなさい。 …

忍耐、薫習、純熟

この1年は改めて、忍耐を学んだ時間でした。六波羅蜜の中で、忍辱とも言われ、基本的な在り方とされますが、これは骨が折れることを身に沁みて感じたのであります。そして、今も試されているというか、ただ中にあるというか。特に人を育てるということにおい…

破り続ける

とどまる訳にはいかない。停滞は退化だ。形を示すのには、痛みが伴う。こんな基本的なことを初めて実感するとは、本当にどうかしてる。仏様にここまでさせてしまったことを懺悔しなければならない。仏の血と汗と涙から南無阿弥陀佛のお相を示して下さってい…

愛とは行為である

今年、感銘を受けた言葉で、とても驚いた。サーバント・リーダーという本の中に出てきた言葉です。 今の自分の問題は、行である。身心意の三業が一体となっているか。 思ったならば、形を表せ。 形なき思いは空想に過ぎない。手を動かす。矢面に立つ。柔らか…

教行信証

春が来れば桜が咲く。桜は冬の間も根を静かに張っている。 淡々と、静かに。着々と、確実に。 根を張り続ければ、自ずから時が来れば、花は咲く。咲かそうと意図しなくても咲く。 だから、すべきことは原点、基礎、基本を反復して身につけ、現実に教えを体現…

菩薩を見た

盲導犬のすがた。完全な菩薩のすがたがあった。寄り添い、導き、自己を滅して、目に成り切っている。尊いすがたに涙が出そうになる。あのような行がいつか出来るだろうか。この身では叶わないだろうが、諦めはしない。究求したい。菩薩とは菩薩行のことであ…

願いを込めて

願いを込めて、ひとと相対している。まず願いが根底にある。出処は願いなのだ。だから、ひとの好き嫌いや、仕事の選り好みは自分にとっては、低い次元の話で、そのような ことはどうでもよい。質の高い仕事を。質の高い在り方を。気高さとか、誇りとか、もう…

今日まで生きてきたこと

生存は苦である、他の犠牲を強いる自己の生存に僕は悲しみを感じる。かといって、死に偏ることは出来ない。否、死ぬのが嫌なんだと思う。ただ、この37年間の生存のうち、32歳から、今に至るまでは、一応は生きてきた、人の身を生きたと言える。そして、沢山…

明鏡止水

明鏡止水は自分の心ではない。もろともに往生を願い、できることに励む。如来の願心が明鏡止水、すなわち、寂静。寂静は柔軟であり、柔軟は堅正であり、かつ、しなやかである。凛とし、気品のある、眼差しと佇まい、寄り添うあたたかい言葉。同じ大地に共に…

思い通りにしたいのだな

苦悩の内容は、自分の思い通りにならないことを憎むこと。他者を変えようとしたり、変えれると思う、その根性が自力なのだなぁと思う。助からないなぁと思う。そこに大悲念佛によって、我汝と共にあり、我が名を称えよと念佛を申す。国土の名字仏事を成す。…

往生の中に今在る

往生は生活である。往生は我等の精神生活である。(親鸞の大地 津曲淳三p21)曽我量深先生の言葉を考える。この残りの人生は何の意味があるのか。どうして信心決定の一念で、この身を滅ぼして下さらなかったのか。生存にどういう意義を見い出せばいいのか。…

先達の言葉

先んじて、人の身を生きてこられた方の言葉、法を求めてきた方の言葉に耳を傾ける。その人にはたらく法を感受することで、法の普遍性を確かめる。おぉ、共に大悲がはたらいておられる、と。諸仏護念の益を感ずる。答えを求めるのではなくて、問い続け、求め…

浄土の大菩提心

悲しい現実はたとえ何も変わらないとしても、誰も関心がなくとも、やり抜く。諦めない。必ず形が心を貫く日が来る。心を射抜く日が必ず来る。道半ばで刀折れ矢尽き果てても、道を継ぐものが現れる。 道は続いていく。往生は道なり。尽き果てぬ道なり。 悲し…

僕はとてもとても悲しい

暫く頻度を落とします。考えつつ、動く。動きつつ、考える。最近は、お寺へ通う機会もかなり絞り、先生も絞っています。その中で、相続下さるはただ念佛の一行であります。他者をどうこうするとか、他者はどうだとか、僕にはもうどうでもよい。専ら仏様の心…

必帰最勝直道

大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。 (顕浄土真実教行証文類序 親鸞聖人)なぜ生まれてし…

生存における緊張感

日常が再び始まった。自分の在り方が試される。柔らかさの中にしなやかさ、いわゆる厳しさも含んだ上で、やりとりせねばならない。労働を提供する代わりに賃金を得る。賃金を得るなら、質の高い労働を模索せねばエントロピー、すなわち、無常に苛まれ、劣化…

余韻

輪が鳴り、静かに止むまでに余韻がある。微かに音が響いている。それに似た何とも云えぬ残響の中にいる。明日からまた日常が再開する。また勝負が始まる。自分との対峙。沢山の方のお話を聞けて良かったと思う。ともに、凡夫がいる。沢山いる。僕もまたその…

自然なる思案

十牛図という譬えがある。見性を通り、一周回って元に戻る。元に戻ったが、実は全然中身が違う。そして、最後は市井の人として、人々と交わり、酒を呑み、談笑し、伴に涙を流し、死んでいく。こういう格好つけない普通の姿に心惹かれる。なぜなら、全く無理…

忘れてはならぬこと

われもかれも、ただびとなり。 このことを忘れて高いところに行こうとする。人間は高くて明るいところが好き、 低くて暗いところへ行こうとしない。むしろ、避けるし、忌避する。しかし、身が大事なところなのだ。だって、自分の存在の現実、実際でありまし…

連鎖を終わらせる

苦悩、すなわち思い通りにならないこと。これに対峙した時、逃げたくなる。恨みたくなる。言い訳をしたくなる。他者のせいにしたくなる。つまり、自分の問題だと背負いたくないのだ。あまりにも問題が重すぎて背負いきれない。 そうすると、不平不満、愚痴、…

人間の本質(V.フランクル) 

人間存在はそのもっとも深いところでは、また究極的には、受難(Passion)であるということであり、またそれが人間の本質であること、つまり苦悩する者、ホモ.パティエンスであるということである(V.フランクル 苦悩の存在論p121 新泉社) パティエンスとは…

誰かのせいにするのは終わりだ

誰かに何かを期待していた。きっとわかってくれるだろうと。わかってくれない彼らが悪いと。随分そうしてきた。もうそういうことは終わりだ。誰もわからまいが、自分はやる。不完全だろうが、具体的に手を動かし、汗をかく。具体的に動く。心を動きで表す。…

むなしさを大切にしたい

そのむなしさを信頼しなさい。 かつて、和田稠先生が仰った言葉と聞いている。 振り返ると、物心がついたのは、おそらく、四歳くらい。幼稚園の記憶。同じクラスの子たちは淡々と折り紙を折っていた。でも、僕は全然折れなかったし、折り方を覚えることもで…